第11回哲学道場の報告
前回はいよいよどんさい氏と言葉が通じ始めたかにも思へ、建設的な議論へと発展する予感がしてゐましたが、今回(1月28日)は打って変はって議論が迷走し、絶望のズンドコに突き落とされた気分でした。
世間話の後、まづ、私が『ウィトゲンシュタイン入門』の内容をレジュメと共に略説し、その解釈について多少議論しました。なぜこの本の解説になったかといふと、前回の最後に自己意識の無限後退についての話に落ち込んで、「それなら永井の独我論を持ってこようぜ」といふノリになったからなのですが、議論が完全に空振りして、どんさいさんが切って来たレジュメに話が移りました。
さて、どんさいさんの立場は「素朴実在論」らしいのですが、これがどうして廣松の「共同主観性」論に反駁できるのか、S代表はもちろん、私にもサッパリ分からないのです。
或る個人の認識(主観)に対して外部拘束的に働くものがあること、これは恐らくどちらの立場も認めることでせう。ただ、どんさいさんの場合はそれを主観から全く切離された客観だと考へ、廣松は逆に主観自身の一部が対象化されて現れたもの、即ち共同主観性だと言ふのです。
この二つの思想は平行してゐて、勝った負けたといふ単純な関係ではないやうに思ひます。ですから、もし一方が誤ってゐるといふのであれば、
- それが内部で論理的に整合しないことを示すか(内在的批判)、
- それが解釈し得ない事実を提出し、理論としての射程の狭さを示す(普遍性の否定)
しかないやうに今の私には思はれるのです。ちなみに三浦先生は後者の方法をよく使ってをられますね。アリストテレスに対するガリレオも後者でせう。
昨日の哲学勉強会で「共同主観の世界観のどこが、どうおかしいのか指摘してもらわなくては議論にならない」と指摘されて困った。レッテルを貼り付けるのは簡単だが、それでは議論にならない。
上記の引用(出典)でどんさいさんが述べてをられるのは、私が前者の批判、即ち「共同主観性」論の内部矛盾を指摘するやうに求めたことを言ってゐます。
そして、逆に、そもそも「素朴実在論」においてどんさいさんが主張する「普遍性」とは何なのか、それは一体何に基礎付けられるのかといふ話になると、どんさいさんは認識論に水を向けて行きます。
今日の思潮の中で生活している人には「二元の素朴実在論」を実感するのは狂気に思えるらしい。
どんさいさんはまづ自我の絶対性を 主張し、それによって自我でないものの存在を根拠付けてゐるらしいのですが、これがよく分かりません。この「自我」は対象化されず、無限後退(或いはそれ に相当する作用)を起こさないさうで、私には不可解でした。また、これによって認識の外にある実在が根拠づけられるといふのも、「素朴実在論」といふ看板 と大きく食ひ違ふ印象を受けました。どんさいさんによれば、これは「二元論」なのださうです。
恐らく、私が受けた奇妙な印象の大部分は術語の解釈の行き違ひから来るものだと思ひます。例へば、哲学史において「二元論」といふのは、モノとココ ロとが共に根本的で永遠の存在であり、両者は平行して互ひに交はる必要がないといふ論だと私は承知してゐます(「デカルトの心身二元論」が典型的でせ う)。
しかし、どんさいさんの場合は自然の中から認識が生まれて来たことを認めてゐるわけで、二元論とは言へません。また、絶対的な自我によって世界が基 礎付けられるなどと言はれると、独我論的な印象を受けます(まさに永井の言ふ前期ウィトゲンシュタインのイメージに重なってしまふ)。尤もこの基礎づけは 単に論証するためにあるのであって、現実の自然史ではもちろん自然が認識に先行し規定するのだといふのかもしれませんが……(しかし「現実」とは一体なん でせう?)。
まあ、私が独りで人の言葉の定義をあれこれいじってみても詮無きことですので、次回に期待したいと思ひます。
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