レジュメ@第11回哲学道場
先週土曜日に開催された哲学討論会で発表したレジュメを置いておきます。あの場における発表としては、独我論としての側面がうまく打ち出せず失敗してしまったと思ってゐます(以下レジュメ。一部日本語がをかしかったので修正した)。
「私」と世界
永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書020、1995)からウィトゲンシュタインの主張 【註1】を簡単に抜粋して説明します。この本ではウィトゲンシュタインを前期・中期・後期に分けて解説してゐるので、本稿でもその区分に沿ってレジュメ化してゐます。
1.前期――写像理論
前期のウィトゲンシュタインは世界を相互に独立な要素に還元して説明できると考へ、各々の要素を命題として考へました(『論理哲学論考』)。あらゆる命題はそれぞれ独立に真偽が決定でき、n個の命題で表される複合的な事態については2のn乗個の可能な状態が考へられます【註2】。そしてその可能な事態のうちで現実に起きてゐるものを彼は「世界」と呼びました。
このやうな世界観にもとづき、彼は言語を現実の反映だと考へました(写像理論)。反映することが可能であるのは、現実とそれを記述する言語表現とが論理的形式(写像形式)を共有してゐるからであり、命題中の各単語にはそれぞれ対象が、単語の並べ方には対象同士の関係が表わされてゐるとしてゐます。
『論考』において「語り得ない」とされてゐるもののひとつは、この「写像形式」そのものであると永井は言ひます。「机の上にコーヒーカップがある」といふ表現(命題)は、机の上にコーヒーカップがあるといふ事実を表してゐますが、この表現と事実との指示関係について、「『机の上にコーヒーカップがある』といふ表現(命題)は、机の上にコーヒーカップがあるといふ事実を表す」と記述しても、この記述を理解するためにはまづ下線部の「机の上にコーヒーカップがある」を理解してゐることを前提にしなければならないからです。従って、或る表現とそれが指示する事実との関係を正確に定義しようと記述を重ねても、無限後退【註3】に陥るだけですから、この関係、即ち「写像形式」は語ることができません。
「写像形式」は世界の形式そのものであるが故に語り得ないのですが、もうひとつ、逆に世界の外側にあるが故に語り得ないものがあります。ウィトゲンシュタインはそれを「倫理」と呼び、永井は「死」や「神」もこれと同種のものだと言ひます。これらは世界の限界を越えた事柄です。そして世界とは「私の世界」であり、記述者である「私」のゐない世界は考へられません。世界の外と写像形式に満たされた内とを隔てる限界が「私」であるといふことになります。そして、世界の外については記述不可能です。
2.中期――検証理論と文法
すべての要素命題はそれぞれ独立に真偽が決定できると捉へてゐたウィトゲンシュタインでしたが、中期に入ると、文法に規定された命題同士の関係に気付きます。例へば、「コーヒーカップは白い」といふ命題は、「コーヒーカップは黒い」を否定してをり、この関係は文法的に規定されてゐると彼は考へました。これは必然的な関係であり、これもまた究極的には語り得ないものとされてゐます【註4】。
この語り得ないものについて、ウィトゲンシュタインは「検証理論」と呼ばれるものを提出します。これはその命題を検証することができなければ、その命題は無意味であるといふ主張です。例へば、「机の上にコーヒーカップがある」などの命題について、経験的観察は常に誤り得るから完全に検証することは不可能とする立場がありますが、それではそもそも「机の上にコーヒーカップがある」がどういふ事実を指すのか分かってゐるはずがありません。我々は既に「机の上にコーヒーカップがある」といふ命題がどういふ事実を指すのか、従ってどういふ規準のもとに「机の上にコーヒーカップがある」と言ってよいのかを知ってゐるから、そのやうに言明できるのです。そして、このやうな意味の知識は文法に属することですが、それは語り得ないことに属してゐます。
3.後期――言語ゲーム
後期ウィトゲンシュタインは言葉【註5】の意味や規則の根拠を実践(言語ゲームのプレイ)に求めます。或る規則は実践は語られることによって示されるのではなく、ただ実践することによって示されるに過ぎません。この実践について語ることはできますが、それは実践そのものではあり得ません。従って、言葉の意味は究極的にはただ実践の形式(生活形式)によって示されるだけで、対象化して語ることのできないものとされます。
例へば、教師が学生に「+2」といふ指示を与へ、学生は「2、4、6、8、……」と書き綴っていくとします。ところが、100を越えたあたりから、彼は「104、108、112、……」と書き始めました。教師は彼を注意しますが、彼は自分は指示通りに書いたと言ひ張ります。この場合、教師は規則を根拠として彼を説得しようとしますが、或る規則とその適用(実践)との間には必ずスキマがあり、規則の適用の仕方がまた新たなる規則として常に現れて来ます。そしてこの新たなる規則とその適用の仕方にもまた規則を挟むことができます。このやうにして無限に続くので、結局、教師は実演してみせて、「かういふものだ」と言ひ聞かせる他ないわけです。このやうに考へてみると、規則は行動の仕方を決定できないといふことになるでせう。
規則が究極的には行動の形式(生活形式)に基礎づけられるとすれば、我々と共通の生活形式を持たない存在とは規則を共有することができないといふことになります。従って、私だけの或る感覚が、何らかの観察可能な条件と結び付けられて共有なものと成り得るのはそれが他者と生活形式を同じくするからであり、文法などの規則によって基礎づけられてゐるのではない、といふのが後期ウィトゲンシュタインの考へ方になると思はれます。
- 【註1】もちろん永井均の「ウィトゲンシュタイン」であることは言ふまでもありませんが。
- 【註2】そもそも生起が不可能である命題は、無意味なものとして排除されてゐるやうです。
- 【註3】挙げた例について、具体的に一段階後退させてみると、「「『机の上にコーヒーカップがある』といふ命題が机の上にコーヒーカップがあるといふ事実を表す」といふ命題は、『机の上にコーヒーカップがある』といふ表現(命題)が机の上にコーヒーカップがあるといふ事実を表すといふ事実を表す」とでもなるでせう。太字部は命題、下線部はそれに対応する事実の記述です。
- 【註4】文法の記述も文法を知らなければ理解することができません。ここでもまた無限後退に陥る可能性があるわけです。
- 【註5】ただし、ウィトゲンシュタインは言葉だけでなく、およそ慣習的なコミュニケーション一般を念頭に置いてゐました。「言語ゲーム」の「言語」もそのやうな広い概念です。
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