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2006年3月14日 (火曜日)

レジュメ@第13回哲学道場

第13回哲学道場(2006/03/11開催)の発表に使用したレジュメです。最後の方では科学が云々となってゐますが、そんなに大袈裟なものではなく、要は不可知論と素朴実在論との間をとってみましたといった程度のものです(この「間を採る」「中庸」といふことが弁証法を身につける上で頼りになる発想かなと思ふのですが)。

なほ、相対的真理の「相対的」がいかなる意味かについては、三浦先生のレーニン真理論批判を含め、改めて書きたいと思ってゐます(一応簡単に言っておけば、絶対的真理がマルバツ式なのに対し、相対的真理は場合分け式であり、条件付きといふことです)。

フィクショナルな実体としての認識

1.何か感性的なものが現れて来るとき、その現れを直接引き起こす原因を想定してこれを「対象」と呼び、そもそもそのやうな現れを可能にしてゐるものを想定してこれを「感覚」と呼ぶことができる。

2.これらは一種の観念的虚構である。虚構といふのは現実そのもの(現れそのもの、或いは対象そのもの)ではないといふ意味である。このやうな認識 上のフィクションを設定して導出される結論が生活上役に立つからと言って、これらのフィクションが必ずしも全く正しくなるわけではないけれども、生活の指 針になり、役に立つならばその限りで一定の真理性を認めても差し支へないと思はれる(実用説)。

3.一方でこのフィクションの内部では真理の一致説が採用されてゐる。つまり、対象と感覚を通した認識とが一致してゐれば、その認識は対象との関係において真理と呼ばれる。

4.感覚のひとつに「視覚」がある。しかし、視覚は直接自分自身を視ることはできない。視野に直接今視てゐる眼球が現れることはない。一般的に言って、感覚によって直接に分かるのは現れの存在だけである。

5.もちろん鏡(媒介)を使へば、視野の中に視てゐる眼球を映すことができる。しかし、鏡から視覚が受取るものもやはり単なるひとつの現れに過ぎ ず、眼球そのものではないことは明らかである。「鏡から受取ったこの現れは自分の眼の像である」といふ判断はひとつの解釈に過ぎない。同様にして、すべて の判断を不毛な解釈であり独断であると考へることもできる。

6.しかし、そのやうな懐疑論こそが不毛であるとも言へる。確かにあらゆる判断は不確かであるけれども、不確かさには程度があり、比較的頼りになる判断と比較的頼りにならない判断とがあるだらう。ヨリ確かな判断を求めるためにはどうすればいいかがむしろ問題になる。

7. 或る判断よりも他の判断の方が確かであることは、対象に対して行なった予想が当たるか外れるかで分かる。自分の前に眼の映像が映ってゐるとして、視線を左 にずらしてみる。鏡だから相手は右にずらすと予想しておく。しかし、それはビデオカメラで撮影中の自分の顔であるかもしれず、もしさうならばこの予想は外 れる。よって、「視線を左にずらせば平面に映った相手は右に視線をずらす」といふのは必ずしも正しくない。しかし、ここで不可知論に陥る必要はなく、鏡と ディスプレイとの区別がつけば(即ちその必然性の認識に至れば)、場合分けすることができるから以後間違ふことはないのである【註1】。諸々の判断をこの やうに場合分け=条件付けしていくことによって立体化させ、体系立てることができる。

8.このとき、ビデオカメラや鏡は視線と必然的な関係を持ってゐないのだから、現れと独立に対象があると想定した方が合理的なわけである。しかし、「風が吹けば桶屋が儲かる」式【註2】に考へれば、別の観点からみてビデオカメラと視線とが関係を持ってゐることはあり得る。

9.科学とはこのやうな体系的認識と言へると思ふ。この認識自体も一種の虚構ではあるが、現れを基礎とし、これにつながってゐる点で、真理だと言へ る。また、場合分けが不充分でつながってゐない点もあってこの点では誤謬である【註3】。この両側面があるからこそ科学は役に立つと言へる。科学は相対的 真理である。

  • 【註1】もちろん更に疑ふこともできる。ディスプレイの向かふにゐるのは別人ではないかとか録画した映像ではないかとか考へられる。しか し、だからといって鏡とディスプレイの区別までが全く無意味で判断の確かさの程度に全く影響を与へないとするのは行き過ぎであり、無益だと考へる。
  • 【註2】これは「風が吹くと砂ぼこりで盲人が増える→その盲人は三味線を習ふから猫の皮が必要となる→猫が捕へられると鼠が増える→鼠は桶をか じって壊すから桶屋が繁盛する」といふ一大システムであるが、この連鎖が成立するためには言及されてゐない厳しい条件がたくさん必要となる。物事はこの落 語のやうにつながってゐる側面を強調するばかりでなく、つながってゐない側面、切れてゐる側面をも見逃さないやうにしたいものだ。
  • 【註3】これは科学が現実と未だつながってゐない面のことである。これを過度に強調すると不可知論に陥り、「すべての科学は仮説である」といふ主張になる。

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