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2006年3月14日 (火曜日)

第13回哲学道場の報告

今回の哲学道場はどんさい氏が都合により欠席し、duality氏、K氏、S代表、深草、飛び入り参加のA氏の五名で開催されました。

いつも最初は雜談をしてから始めるのですが、今回はルイス・キャロルのパズルについての話をしました(『もつれっ話』、柳瀬尚紀訳、れんが書房新社、p.159、なほ、分数による表記は小数によるものに直した)。

問――乗合自動車がある地点から2方向に15分毎に発車する。旅人が片方を徒歩で追い、12.5分後に反対方向の乗合自動車に出会った。旅人が歩いている方向の乗合自動車に追いつかれるのはいつか。

duality氏はこの問題を幾何学で解きました。即ち、ダイアグラムを描いて解を出したわけですが、「次元を高くした方が整合的に解ける。問題に対し て次元が低過ぎると特異点(例外的な部分)を設定せざるを得ない」と言ひました。例へばこの問題を解くには、一次元では特異点ができてしまふので、時間軸 とバスや旅人の位置を表す軸との二次元が必要だといふことです。

S代表はこれを聞き、「では一問一答式の問題ではどうか」と切り出しました。例へば「チャドの首都は?」「ンジャメナだ」といふやりとりは「チャド」と 「ンジャメナ」といふ二点を結ぶ線分が表象されるわけですから、これは一次元のやうに思へるわけです。ではこれを次元を増やして考へるともっとうまく解け るやうになるのか、といふのがS代表の疑問でした。

私はこれに対し、「チャドの首都は?」と訊かれて「ラバトだ」と間違ったことを答へる可能性を指摘してみました。もし質問に対して二通りの答へが考へられ るとなると、「チャド」「ンジャメナ」「ラバト」の三点が考へられるわけですから、これは平面上の図で考へなければなりません。つまり二次元です。一次元 では間違ふといふ現象を説明できず、特異点として処理せざるを得ないといふのが私の意見です。

この他にも日本語で問ふか、英語で問ふか、質問に対してどのやうな心理的過程を辿って答へに辿りつくかなどを考慮すれば、いくらでも次元を増やすことはで きます。しかし、これは必要の問題で、余った次元はメモリの無駄にしかならないわけです。言ひ換へれば、次元を増やすことは捨象したものを改めて考慮に入 れていくことですが、さうやって具体的に考へ過ぎると、今度は却って煩雑に陥るといふことです。

なほ、対象化するといふことは見る側と見られる側とに分裂することですから、これも次元を増やすことになるのでは……などといふ話もしましたが、流石にそこまで行くと「次元」といふ概念にこじつけていいものかどうか、文系の私には判断がつきかねるところがあります。

そんな話もそこそこにして、今回は私がレジュメを配って発表しました。以下はこれまでの整理も兼ねて各自の持論に対する私の整理です。

趣旨を大雑把に言ひますと、視覚を例にとれば、肉眼による現実的視点と心眼による想像の視点とがあり、現実の視点では見えないものについて知ることはでき ず不可知論を採らざるを得ないけれども、想像の視点では、現実の視点では見えないはずのところに回り込んだり、神様のやうに全知全能の立場に立ったりして 仮説を立てることができるといふものです。

そして、科学は現実のすべてを知り尽くすことができないといふ点では飽くまで仮説ですけれども、予想を立て、きちんと条件を整備して実験を行なふ点において、単なる経験や解釈よりも確かな認識であり、比較的正確な現実の指針と成り得るといふ話です。

13thtdr 左図においては、壁の脇からはみ出たシッポしか肉眼では見えません。しかし、観念的に壁の後ろに廻って「これはネコのシッポではないか」と予想を立てることができます。予想の根拠として、ネコのシッポらしい特徴を見出したのであれば、それがシッポをネコのものだとする条件になるでせう。この前提条件がどの程度結論の妥当性を保証するものなのかは、現実に後ろに回りこんで見ることで検証され、仮説の現実に対する確度が高くなったり低くなったりします。

一方で、どんさいさんの図式は絶対主観が常に対象化された世界の外にあり、絶対主観が経験界を見下ろす構図になると思ひます。この絶対主観は自己自身を対 象化し、「私」として経験界に登場しますが、これによって、絶対主観そのものがなくなることはありません。絶対主観は常に対象化された私以上の者として君 臨し続けることになります。これだけだと、絶対主観の視界にすべてが収まることになり、独我論的な構図にも思へますが、近代科学の観方を前提にしてゐるわ けですから、絶対主観が生まれる前、或いは死滅した後も対象世界が存在することを主張することになり、不合理な、或いは独断論的な印象を与へます(しか し、私の理解がなほも不正確なのかもしれません)。存在論について言へば、「である」といふタマネギの皮があるならば、その奥に必ず「がある」といふ芯の 存在を認める立場です。

廣松渉の立場から更に観念論的に進んでしまふS代表の立場は、現実は多数の主観による歴史的多数決で構成されるといふものです。私たちは様々な共同体に属 し、その共同体の文化に浸ってゐるわけですから、私にとっての世界とは私の属する様々なコミュニティの観方の函数として現れるといふのがS代表の立場で す。個性が所属するコミュニティの組み合はせに還元されてをり、また、極めて機能主義的な観方だと言へませう。存在論について言へば、剥いても剥いても 「である」の皮しかなく、「がある」など存在しないといふのがこの立場です。

duality氏は主観は座標系であり、仮定されたものさしであると言ひます。このものさしに引っかかる限りで何事も主張できるのであり、ものさしに引っかからないものについては不可知論を採ります。

飛び入り参加のA氏は、世界は「用材性」(ハイデガーの用語)によって構成されてゐると言ひます。つまり、自分にとっての手段‐目的の系列でモノゴトは捉へられてゐるのであって、その限りで存在してゐると言ひ得るといふのが氏の立場です。

さて、それなりに誤解もあるとは思ひますが、一年間やってみて、それなりに存在論・認識論については相互に理解が進んだといふことで、次回は実践哲学(倫理学)の話題に移ってみようといふことになりました。

次のテーマは「道徳」です。来月もよろしくお願ひ致します。

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