レジュメ@第02回京哲
先日京都で行はれた哲学討論会(第2回京都哲学道場)で使用されたレジュメです。内容は『シジウィックと現代功利主義』の前半部分をまとめたものです。しかし、まとめにしては長過ぎた(A4用紙にして十枚に相当するレジュメ)と反省してをります。少し言ひ訳させてもらふと、実際の発表では決してこのレジュメを棒読みしてゐるわけではなく、さらに要点を絞ったカタチで解説してゐます。ここに載せる関係もあってレジュメは単独で読んでもなるべく筋が通るやうに詳述してゐるつもりなのですが、今回はそれが行き過ぎました……。
功利主義か利己主義か
奥野(中野)満里子『シジウィックと現代功利主義』(勁草書房、1999)から、第二章を除く「Ⅰ シジウィックの倫理学説」の部分をまとめました。
第一章 倫理学の射程
シジウィックによれば、倫理学とは「個人の意志による行為に左右される限りでの、正しいこと、またはあるべきことについての科学または研究」とされます。ここで科学といふのは体系的で正確な知識を求める研究をさしてゐるさうです(以下、シジウィックの立場から述べていきます)。
倫理学のテーマとしては行為の他に人格評価なども考へられますが、それらも結局は行為を通してしか評価できないのですから、倫理学の中心テーマは行為の規範になります。また、倫理学以外に規範を扱ふ学としては政治学がありますが、扱ふ対象が政府の政策決定であるか、個人の行為選択であるかといふ点で異なります。
倫理学が扱ふのは行為の中でも当人の意志によってなされる行為、意識的な行為ですが、これだけでは不充分で、倫理学の関心の対象となる「自分の意志による行為」とは、意図や行為の結果(帰結)が心の中にイメージされて、これらの結果を選択・決断してゐる自分が意識されてゐる行為です。
ここで用語を整理しておきませう。
- 「欲求」:或る対象や行為へと向かふ衝動の中で自覚されてゐるもの
- 「動機」:欲求の中で特に行為へと向かうもの。この行為の結果として欲求対象は達成されると予見される
意志は複数の動機の中で意識的に選択を行なって行為を一つに決めます(意志がない場合は衝動の強さによって行為が決まります)。尤も、意志が決定した行為が必ずしも遂行されるとは限りませんし、その行為が正しいかどうか、或いは合理的であるかどうかはこれから検討されるところです。
また、行為によって引き起こされる「帰結」に関して言へば、これは行為を意図する際に予見される結果のことであり、予見してゐなかった結果はこれに入りません。
これに関連して帰結主義と義務論を区別すると、正しい行為の判断にとって、単に「その行為を行なった」といふ帰結を以て本質的であるとするのが義務論であり、それ以外の帰結こそが本質的であるとするのが帰結主義と呼ばれるものです(シジウィックは帰結主義です)。
以上から、倫理学は「意図的行為の客観的正しさをいかにして判断するかの研究」と考へることができます。私たちが倫理学に求めるのは行為決定の原理であり、その具体的な手続きを示すものです。ところで、私たちが日常用ゐる倫理学の方法の基礎となる見解について言へば、以下の三つが考へられます。
- 1.利己主義(利己的快楽説)
- 自分自身の幸福または快が行為の究極目的であり、人はこの目的を最大限に達成する行為をなすべきである
- 2.功利主義(普遍的快楽説、シジウィックが支持したい立場)
- 人々の幸福または快が行為の究極目的であり、人はこの目的を最大限に達成する行為をなすべきである
- 3.教義的直観主義
- 義務や徳など、直観的に把握される道徳規則(教義)に基いて行為すべきである
(「第二章 『倫理学の諸方法』の概略」は省略します)
第三章 基本的な道具立て
倫理学の三方法について詳しく見ていきます。
・利己主義
「利己主義」を文字通り解して「何らかの意味で自己の善を実現する行為が正しいという見解」にしてしまふと、個人的行為規範を扱ふ倫理学の全見解が「利己主義」に含まれてしまふので、ここでは「利己主義」を「自己の幸福または快」を追求するものに限定します。
ここで、「快」とは欲求対象となる感情一般を指し、「心地よい」感情、「望ましい」感情と表現されます。また、「幸福」とは快と同義、もしくは諸々の快を構成要素とするものと考へます。
利己主義とは、生涯に渡る自分の快を最大限になるやうな行為を選ぶべきだといふ見解です 。
なほ、快の大小比較について言へば、「快の強さ」とは感覚の強さではなく、感情に対する望ましさ(選好強度)の強さを指します。快は行為決定の唯一の基準とされるので、快に質的優劣はなく、すべての比較は量的なものとされてゐます。
・功利主義
功利主義は利己主義と違って、「その幸福が行為によって影響を受ける全ての存在(人類あるいは感覚を有する存在)の幸福」を目指します。従って、功利主義では快の個人間比較とその集計といふ作業が要請されます。
・教義的直観主義
まづ、直観主義とは正しい行為を規定する指示や規則が、無条件に私たちを拘束するものとして推論なしに直接に認知され、これらの指示や規則に照らして行為は判断されるとする見解です(これは21世紀の今日では義務論や徳論に当たります)。
これは或る種の行為がそれ自体で正しく合理的であり、その正しさや合理性は他の帰結から独立してゐるとする見解です。従って、直観主義では行為自体が目的となります。
この三方法は「行為の究極的理由」の考察から導かれます。諸々の行為理由の中で、究極的であり、かつ、多くの人々によって支持され得る客観的なものを探してみると、ひとまづ次の四つを挙げることができるでせう。このうち、行為の究極的基準を1か4に求めれば教義的直観主義の方法になり、2に求めれば利己主義の方法、3に求めれば功利主義の方法になると考へられます。
- 人間的に卓越しよう、或いは人間的完成を目指すため
- 自分自身の幸福といふ目的のため
- 人々の幸福といふ目的のため
- それが無条件に指令される義務だから
この三区分は飽くまで便宜的なものですが、私たちの当面の考察目的からすればそれなりに意義があると考へられます。
さて、ここで直観主義について述べておきませう。直観主義はその把握する真理内容によって次の三種類に分かれます。
- ・知覚的直観主義
- これは個々の状況で行為の正不正を直観するものですが、これはそもそも体系化できるものではなく、学としての倫理学の目的には沿ひません。
- ・教義的直観主義
- 幾つかの一般規則を直観的に把握して行為の正不正を判断します。これだけが倫理学の方法として検討できます。
- ・哲学的直観主義
- 私たちの道徳的推論の基礎をなすやうなヨリ抽象的な公理を直観的に把握するものです(シジウィックの立場)。なほ、この公理は経験的に見つけられたものを直観によってテストすることで得られます。この意味で、直観と帰納とは対立しません。
第四章 基本概念の分析
ここでは、倫理学の基本的な概念を詳しく見て行きます。
倫理的な意味での「べき」「正しい」といふ概念:これらに共通する特徴は、
・事実概念とは全く異なること
・単純で定義不可能であること
→従ってこれらの概念の明確化は他の概念との関係を可能な限り正確に述べることによってのみなされます。
・何らかの普遍的真理の認知に基いて動機や衝動が与へられ、意志へと促される意味を含む
→ここでは「べき」の意味を個人が自分の意志で左右できる事態へ適用できるものに限ります。例へば、「富士山は琵琶湖畔にあるべきだった」などの判断で意味されてゐることは倫理学の関心から外れてゐます。
しかし、倫理的判断に共通する特徴として、「~べきだ」と私が正しく判断したときには、その判断対象については全ての理性的存在が同様に判断しなければならないといふ意味を含んでゐることが挙げられます。これは倫理的判断が個人の感情や個別的状況に留まらない普遍的真理を背景に持ってゐることを示唆してゐます。また、実行可能な行為についての倫理的判断はさうした認知に基いて一定の動機・衝動を与へます。
なほ、目的論を採用した場合、私たちは或る目的を目指す「べき」ものとして認めるだけではなく、その「目的に不可欠の、または最適の手段となる行為を採用すべき」ことも認めてゐると考へられます。
「善」:ここでは他のものの手段として善いものではなく、それ自体として善いもの(究極的善)を指して「善」と呼んでおきます。善とは(潜在的な理性の命令によって)目指されるべきものであると定義でき、また、私たちは「よい」といふ判断について現に比較考量してゐます。
ここで、善と快との関係について見ると、第一に、或る対象に快を感じたかどうかとそれが「よい」かどうかは必ずしも対応しません。第二に、快は個人的主観的だが、「よさ」は何か普遍的な基準を前提としてゐる概念です。第三に、哲学者たちによってなされた「快こそ究極的善である」といふ主張が同語反覆でなく有意味なら善と快とは同義ではありません。以上から、よいものと快いものとは確かに多く一致しますが、それは指示対象が同じといふことであっても、意味が同じといふことではないと分かります。
また、善は現に望まれてゐる欲求対象とは異なり、「望ましい」ものだと言へます。ここで、「望まれるべき」ものだと言はないのは、「べき」と言ってしまふと理性の命令が顕在化し、意図が実現できる状態を指すことになるからです。従って、「望ましい」とは或る理想的な条件のもとでそれが(その望ましさの度合に応じた強さで)望まれるであらうといふ意味です。
さて、個人が望むやうな「最大の善」については分かりましたが、普遍的基準足り得るであらう「全体としての最大の善」についてはどう判断すればよいのでせうか。次に「現在の私にとっての善」「私の全体としての善」「全体としての善」の三つに即して考へて行きます。
・「現在の私にとっての善」
これは私が達成可能と判断し、達成して欲求が充足された状態を完全に予見したときに、それ自体を目的として自分自身のために私が望むであらう対象です。
・「私の全体としての善」
現在の私の善のみならず、未来の私が望むであらう善についても考慮した上で、かつ純粋に私自身だけを考慮して考へられるのが、「私の全体としての善」です。
・「全体としての善」
全ての存在に対して同等の配慮をすると仮定した場合、私が合理的な存在として実現を望むものが「全体としての善」です。
なほ、恒常的によいと見做されてゐるものをよく反省してみると、人間存在から離れては「善」と見做されるやうなものはないことが分かります。一般に、美や知識、その他の理想的善や全ての外的事物は、それらが幸福か人間存在の完成・卓越に貢献する限りで目指されるべきものになる可能性があります。
第五章 「自明でしかも意義のある命題」の基本条件
直観的に真であり、かつ、意義のある(同語反復でない)命題を求めるための条件として、次の四つを提案します。これらの命題に照らすことでヨリ確実に求める命題を見出すことができるでせう。
(1)命題の用語が明晰かつ正確であること
用語について、人々の間で異なる解釈が起こらないやうに厳密な定義が求められます。
(2)その命題の自明性が注意深い反省により確かめられてゐること
自分が現在抱いてゐる感情や欲求、自分が属する文化から来る確信を取り払ってみても、その命題が自明かどうかを検討してみることが要請されます。
(3)自明として受容れられてゐる命題が相互に矛盾しないこと
倫理学は体系的な研究であり、一貫性が要求されてゐます。また、二つの直観的命題に基いて二つの矛盾する行為が命じられるとすると、倫理学は行為の手引き足り得ないと思はれます。
(4)人々の「普遍的」ないし「一般的」合意があること(特に専門家の合意により支持されること)
これも完全な条件ではありませんが、当該命題があらゆる人々にとって真であるならば満たされてゐなければならないものです。
これらの条件に照らしてみると、これまでの常識的道徳には含まれる言葉の意味が明確に合意されてゐないものや、適用に際して例外があることが分かります。私たちは常識から離れ、上記のテストに耐え得る絶対的な実践原理を、哲学的反省により求めることが必要です。
第六章 三つの基本原理
次の三つの基本原理(格率とも呼ばれます)が示されてゐます。
・正義の原理
これは「正しい」「べき」といふ語を用ゐた判断においては、どの個人も論理的に等しく扱はれるべきだといふものです。二つの状況に対して合理的な根拠もなく異なる判断を下すべきではありません。しかし、この格率だけでは行為選択の導きにはなりません。そこで、次の二つの格率が示されます。
・合理的自愛(将来を見通す思慮)の格率
これは「人は自分の全体としての善を目指すべきである」といふ格率です。即ち、未来の自分にとっての善と現在の自分にとっての善とを同等に尊重すべきであるといふことです。
・合理的博愛の格率
これは二つの自明の直観から導かれ、(3)によって正確に定式化されます。
(1)一方の事例でヨリ多くの善が実現されさうだと信じる特別な根拠がなく、かつ、「宇宙の観点」から見るとするならば、任意の二人の善は重要性において等しい
(2)合理的存在として、私は、私の努力で実現し得る限り、善の特定一部だけでなく、善一般を目指す義務がある
(3)従って、公平に見た場合、各人には自分自身の善と同等に他人の善を尊重する道徳的義務がある
しかし、これには公平な観点を採るならば、といふ仮定が入ってをり、現に私たち
がそのやうな観点を採るかどうかは別問題です。
第七章 功利主義の基礎
1.帰結主義と最大化原理
功利主義は帰結主義です。これに対して、非帰結主義の立場としては義務論の立場と動機主義の立場とが考へられます。しかし、義務や徳を分析すると、概念が明確でなかったり、規則同士で矛盾を起こしたり、よく見れば限定や例外があったりして、ここから体系的な倫理学の構築は望めないことが分かります。また、動機を行為やその帰結から全く切り離して道徳的に評価することはできないと思はれます。さらに、動機の比較についても合意できる基準があるとは思へません。かうして非帰結主義は不完全なものとして却下されます。
これまでの議論から考へると、功利主義ではすべての個人の善が現在から未来に渡って平等に配慮されるべきこと、この総和といふものを想定するなら「最大の善」の定義から善の総和を最大化すべきことが導けます。
次に、善が快楽であるかどうかを検討します。
2.快楽説
2.1.快概念の分析
快は一種の感情であり、私たちが維持または実現したいといふ欲求を喚起しながら、欲求対象とは異なるものです。また、快は必ずしも「現に望まれる感情」ではなく、「望ましい感情」と表現されるのが適切です。
快はそれを経験する時点の個人本人にのみ直接に知られます。しかし、快を感じるのは一時点の個人であっても、快といふ概念の意味は私たちに共通であり、ここから私たちは快といふ共通の言葉を用ゐて議論が出来るのです。
2.2.快の定義(量的比較用の定義)
快には中断されて初めてそれに対する欲求が喚起されるやうなものがあり、また、実現不可能な快や未来の快についてはあまり欲求が湧かないこともあるので、快の大きさと現実の欲求の大きさとは正確に比例しないと考へられます。
そこで、快は「望ましい」感情であるといふ定義が提案されます。これに従ふならば、快とは、
- その感情を自分の意志で維持または産出可能と判断し、
- この感情が生じた状態について知性・感情の両面で完全に予見できた
――といふ理想的条件を満たせば、望ましさの度合に応じた強さで望まれるだらう感情だといふことになります。快楽を量的に測定する際には経験してゐる時点の本人の判断によって測定するのが最も厳密とされ、しかもその場合でも当該感情以外の状況・条件・帰結をすべて捨象することが求められます。なほ、この定義は普遍的快楽説にも適用できます。
快の比較には困難がありますが、私たちが日常的に行なってゐる比較作業から考へると、大雑把にではあれ、実践的には支障のない程度で他者の快は知り得ると仮定してゐるやうです。
2.3.快と善:心理的快楽説と善の快楽説
快楽説には幾つか種類があり、次の四つに分類できます。心理的快楽説と善の快楽説を混同することはできませんし、また、心理的快楽説から善の快楽説を導くことは無理であると考へられます。これは事実判断と価値判断とは根本的に異なるといふ論点を反映するものです。
-
心理的快楽説:「各人が現にもつ欲求の対象は、常に(誰かの)快である」
- 心理的-利己的快楽説:「各人が現にもつ欲求の対象は、常に自分自身の快である」
- 心理的-普遍的快楽説:「各人が現にもつ欲求の対象は、常に人々一般の快である」
-
善の快楽説:「快こそが唯一の究極的善であり、なすべき行為の究極目的である」
- 善の利己的快楽説:「自分自身の快こそが究極的善であり、なすべき行為の究極目的である」
- 善の普遍的快楽説:「人々一般の快こそが究極的善であり、なすべき行為の究極目的である」
次に見る「快楽説の論証」では、私たちが普段望ましいと判断してゐる多様なものの中でも、本当にそれ自体として望ましいものは何かと反省すれば、快以外には考へられないことが論じられます。善の快楽説はこれによって支持されるでせう。
2.4.善の快楽説の論証
究極的善は快のみであることの論証を試みます。
2.4.1.そぎおとしの議論
「善さ」は人間の意識から離して考へることができません。従って、究極的善も人間の意識と切り離せないやうなものの範囲で探求されます。
まづ、美徳について言へば、私たちが或る人に美徳があると判断するのは、その人の行為や感情、或いはそれらからの帰結によると思はれます。しかし、行為や感情に示されるものとして徳を考へる場合、それを一般的に常識的な徳目に従ふことと考へると、常識的道徳規則の限界→三つの基本原理→究極的善の概念と進んで来た私たちはまた常識的道徳に戻ることになり、論理循環に陥るのみです。
また、個々の徳目を見ても、究極的ではないものもあり、限界があるものもあります。智恵・博愛・正義などにはそのやうな限界がないやうにおも思はれますが、これらの概念も、「何らかの善とそこに至る手段を洞察する能力」「他人に善をなす行為に示される」「何らかの善悪を或る規則に従って公平に分配すること」といふやうに、分析してみれば、善の概念を含まざるを得ません。以上より、常識的徳目はいづれも究極的善とは呼べないことが分かります。
また、カントのやうに意志の主観的な善さを徳の本質とする立場は、客観的に正しい行為は何かを具体的に求める私たちにとって役に立ちません。
意識ある生のうち、私たちが問題にするのは生に意識が伴ってゐるかどうかだけでなく、その個人の意識が望ましいものであるかどうかといふことです。私たちが究極的善だと見做すべきなのは「望ましい意識」であると考へられます。
私たちの意識的経験には感情のほかに認知と意志が含まれます。しかし、ここで注意したいのは、認知や意志といふ意識状態についての価値判断と、認知または意志するときに成立してゐる意識以外の事態についての価値判断との弁別です。両者を混同するとき、私たちは本当は(1)現在の意識状態から生じると予見される将来の影響か、(2)意識主体と外界に在る事態との客観的関係、に過ぎないものに対して「よい」「望ましい」と判断してゐることになるのです。(1)はそれ自体として望ましくありませんし、(2)は意識の範囲を逸脱してゐます。これらの考察から、認知や意志が候補から除外され、究極的にして唯一の望ましい意識は快であることが示されます。
2.4.2.直観と常識への訴え、および反論への回答
常識的判断においても、私たちがそれらを適切なものであると見做すための基準を反省するなら結局快を基準とせざるを得ませんし、また現にしてゐるやうに思はれます。
また、快楽説に対して人々の間に反感が見られるのは確かですが、これは誤解に基くものと思はれます。まづ、「快楽」といふ言葉で通俗的な享楽を誤って連想する可能性がありますが、快楽説で言ふそれはもっと広い意味で使はれてゐます。次に、快楽説は利己的快楽説と同一視されることが多いのですが、上記の論証は善の快楽説一般を支持するもので、利己的快楽説を特に支持しませんから、この反論は失当してゐます。さらに、快楽は意識されずに目指される場合の方がヨリよく達成されることがありますから、経験的にそれが支持されるなら、快楽説の立場からでも快以外の目的や理想が高く評価されることを合理的に説明できます。
2.4.3.快楽説以外に、実践的必要に応える体系的理論は見つからない
まづ、哲学的な分析に耐えて生き残る究極的善の候補は快だけであり、次に、私たちの反省的常識によって究極的善と認められるのも恐らく快であり、さらに、私たちの実践的必要に応へてくれるのも快楽説である、といふ三段階の議論で、快楽説は私たちが採用できる唯一の選択肢として支持されることになります。
3.「諸個人の快楽の総和最大化」としての功利主義の成立
究極的善とは快です。従って、目的論を採り、快楽説を採り、公平な観点を採って合理的博愛の原理に従ふ限り、人は個々人の快をその大きさ(量)に応じて平等に扱った上で、全体としてそれを(可能な限り)最大化すべきだといふことになります。かうして典型的な功利主義が理論的に基礎付けられました。
4.常識による支持
常識的道徳のあり方を功利主義の観点から説明することができ、ここから、常識的道徳の妥当性を「無意識的に」支へてゐるのは功利主義だといふ仮説が立てられます。もしこの仮説が正しければ、功利主義は常識による支持といふ裏づけも得ることになります。
常識的な道徳規則はそれ自体では整合的体系をなしませんが、功利主義原理によって支へられてをり、原理から具体的な行為を導くためにの「中間公理」として役立ちます。私たちは常識的道徳を重視しつつ、必要に応じて意識的に功利主義的思考を行なって、常識的道徳の不完全さを補っていく必要があります。
5.利己主義との対立可能性
ところが、以上の論点からは「公平な観点」を採用しない利己主義者は却下できません。快楽説一般は支持されますが、しかし、そこから利己的快楽説を完全に締め出すことはできないのです。
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投稿 10023019 | 2007年9月 2日 (日曜日) 11時24分