第15回哲学道場高円寺「視覚」
立体視について
ステレオグラムを視る技術(交差法・平行法)は生得的なものではありません。ここから立体視は後天的に習得されるものであることが分かるといふお話でした。
ここでは立体視と立体的な位置関係の把握とが必ずしもつながらないといふところでツッコミがありました。つまり、たとへモノ・アイの認識であっても自らが運動したり、記憶を参照することによって立体的な位置関係の把握はできるはずだらうといふことです。これと所謂「立体視」とはどう違ふのか、といふ議論でした。
光・色・音
どんさいさんはスペクトルなどで表される光の体系が「客観的」なものである(人間の認識とは独立に存在し、決まってゐる)と考へてゐます。これに対し、S代表はそれはひとつの「共同主観性」に過ぎないと言ってゐます。S代表によれば、みんなが暗黙に合意して近代科学といふひとつの枠組みを受容れてゐるからそのやうな「客観性」があるやうに思へるのだといふことになりませう。
私の感想を言ひますと、どんさいさんの主張は、可視光から作る体系よりも物理的波長をモノサシとした体系の方がスッキリしてをり、便利であるといふ意味では支持できると思ひます(天動説より地動説の方がスッキリしてゐるといふのと同じ意味です)。しかし、どんさいさん自身の主張はどうもそれ以上の何かであるやうです(光の体系が何か「真実」のやうなものとして提出されてゐる感じでせうか)。
光の分類体系は便宜的なものに過ぎないといふ見方からすると、S代表の主張が成立する余地も出て来てしまひます。「共同主観性」一元論は後付けの解釈でしかない(反証可能性が無い)と私は思ひますが、どんさいさんのやうな絶対性の主張に対してはカウンターに成り得ますから、却下できなくなってしまふのです(一種の独我論であると見做して放置するといふ手もアリかなとさへ思ひます)。
光と色の話に付け加へて、どんさいさんは音について言及します(引用はレジュメから)。
コマの表面を色分けして回転させれば別の色が見える。決して光の波長が変化するのではない。他方聴覚では混合は起きない。音楽で各楽器の音は別々に聞こえる。
しかし、ここは私がツッコんで、「群集のざわめきを遠方に聞く場合などは音でも混合が起きてゐる。近くに行けばもちろん区別できるが、(点描などを考へれば分かるやうに)それは色の場合でも同じである」と述べておきました。「混合」といふ言葉の意味を機能主義的に「人間が区別できない」と解したことになります。
解釈する視覚・解釈される視覚
どんさいさんの発表の趣旨は視覚も「ありのまま」を映してゐるのではなく、重層的に解釈を加へた結果が映されてゐるといふことであると受取りました。
このやうに視覚に解釈が入ってゐるといふ見地からさらに飛躍してしまふのが観念論哲学なわけで、個々人の視覚のあり方に対して光の体系が特権的な地位を占めるとか、そもそも何か視覚そのものからは独立して存在する対象が見えてゐることに反発し、否定する方向に持っていくわけです。
横井さんは次のやうに主張します。環境と人間とは切離すことができないもので、色覚もまた、社会や環境から離れては考へることができない。そのやうな色覚の外に光の体系を考へるといふことは直接的なものから離れることであり、自分の立場からはむしろ科学が提示するやうな「光の分類体系」こそが解釈と呼ぶべきものである、と。
ちなみに、昔のドイツにヤコービさんといふ人がゐて、「あらゆる哲学は媒介知である。即ち、前提から導かれるやうな知に過ぎない。そのやうなものはカントによって真理に至り得ないものとして示された。だから、前提抜きに啓示される直接知こそが真理を把握し得るのだ」と主張したさうです(『国家の品格』みたいなものでせうか?)。私たちが直接に感じるこの視覚が客観ではなく、視覚そのものから様々な媒介を経て作られた光の体系が何らかの客観と照応してゐるといふことはどうして言へるのでせうか。媒介された知がどのやうにして真理足り得るのかといふのは興味深いテーマではあります。
まあ、今回のテーマは圧倒的に自然科学よりだったわけですけれども、私のレポートでは無理矢理私自身の関心(哲学)の方向に編集したところがあります。御了承ください(この問題は私以外の報告者を募り、複数視点からの報告を並べることでしか解決できないと考へてゐます)。
次回・哲学道場高円寺は6月17日開催、テーマは「意識」です。
【約2000字】
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