「哲学道場」の報告の客観性
私は哲学道場の報告を書いてゐます。しかし、「報告」や「記録」は一般にその客観性が疑はれる必要があります。
私は哲学道場といふ場そのものではなく、そこから媒介された自分の認識をさらに表現(報告)に結実させてゐるわけですから、私の認識を鏡(媒介)とした〈像〉を読む人は受取ることになります。そして、鏡といふものは対象を全面的に映すといふことはありません。その意味で、私の認識も至るところ歪みがあり、欠けてゐる箇所もあるわけで、純粋に客観的と言ふわけには参りません。このことは京都哲学道場における私の報告とitikunさんの報告とを比べてみても分かることでせう。同じ対象について違ふ言語表現が出て来るといふことは、特にこの場合に限って言へば、私とitikunさんとの感覚器官の位置や記憶能力の違ひによるだけでなく、ものの見方考へ方からして異なることを示してゐます。
殊に哲学道場においては、相手の表現を解釈して、自分が発言し、それについてまた相手が解釈して発言するといふやうに、明らかにお互ひの認識内容が入れ子式に積重なって行きます。そしていくら相手の誤解を訂正して行ってもお互ひに相手の表現内容を知り尽くせるわけではありません。また、相手の発言に関しては記憶違ひといふこともあり得ます。私にとっての相手の心は客観ですが、その相手の心は逆に私の心を客観として捉へてゐるわけで、客観的対象である相手の心の中に自分の心(主観)が含まれてゐると言った入れ子構造が対話の全体(対象)に対して近似的に成立してゐるのです。
このやうな入れ子構造の生成過程の認識を報告ではさらに適当にトリミングして示してゐるわけですが、元々の入れ子式の認識からして客観的事実と主観的判断とが入れ子式に積重なってほとんど切離せなくなってゐる上に、さらに何を表現すべきで何を表現すべきでないかの価値判断まで入って来るとなりますと、その報告の客観性は怪しくなって来るわけです。
しかし、歪んだ鏡でも歪んでゐることを知ってゐれば正しく使へますし、ときには平らな鏡では映せないものを映してくれて便利です(例へば凸面鏡は道路に設置されて視界の外にある道路の様子を教へてくれます)。例へ個々の〈像〉は歪んでゐても、歪み方が或る程度分かってゐれば相対的ではあってもそれなりに正しく対象のあり方がつかめるはずです。
哲学道場の報告もやはり不可避的に主観性を含みます。ひとつの報告で(少なくとも現実的な対象に対する)純客観的な記述などできるわけがありません(しようとしても逆に無味乾燥で冗長な報告にしかならないといふ恐れもあります)。これを克服するためには、読む側に注意を促すことと、複数の報告者からの報告によるしかありません。複数の報告者から報告があれば、各々の報告者も自分の報告の特殊性を把握し、ヨリ個性的な報告を書けることになりませう。そのやうな報告は主観的ではありますが、主観性(個性)が分かり易く打ち出されることによって、読む側からは逆にバイアスを消去し易くなるはずです。読み易く面白い報告を書くためにはかうしたことが必要だと私は思ってゐます。
ひとつひとつの報告は主観的であるけれども、自分の報告が主観的だと意識することによって、読み手がそこからヨリ客観的な認識を媒介し易いやうにすることが、報告の主観性を克服するために必要であると考へます。
【約1400字】
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