第1回京都哲学道場
まづ、S代表がパースの推論の分類法について、「演繹・帰納・仮説形成といふ三分類は、伝統的真理観・反証可能性・パラダイム論にそれぞれ対応してゐるのではないか」と述べました。
「伝統的真理観」とは、真理は絶対的なもので、過去においても未来においても不変のものであるとする観方、「反証可能性」はポパーが提唱した考へ方で、事後解釈によって反証される可能性がなくなってしまふ説は科学的真理ではないといふ観方(真理は未来の或る時点で反証される)、パラダイム論とはクーンが唱へた考へ方で、いかなる真理も時代の制約のもとで初めて真理足り得るといふ観方です(真理は過去にも未来にも限界を持つ)。
しかし、パースはどうも推論から独立した観察事実を認めてゐたやうですから、全体的に伝統的真理観に近いところがあり、パラダイム論などに当て嵌めることはできないやうに思ひます。
さて、パースは学問の進歩を妨げるものとして「絶対的断言」や基礎づけ主義などを挙げてゐます。
しかし、例へばデカルトが意識の存在(コギト)から神の存在証明を行ひ、神を誠実で私たちに開かれたもの、私たちが目指すべき完全性として考へてゐるわけですが、これだって学問の進歩を保証し、開かれたものにしてゐるとは言へないでせうか。しかし恐らくパースはデカルトのコギトも不可偽ではなく、絶対的ではないとするでせう。
その他、ラッセルのパラドックスにひっかけてパースの「連続性」を説明したり、うみねこさんの「自発性」のお話、夢の懐疑(この世界は夢であり、本当は存在しないのではないか)における「存在」の意味の二重化などについて話しました。
今回は全体的に顔合はせの意味合ひが強かったと思ひます。高円寺での議論をみても、やはり一年間お互ひのものの観方考へ方・言葉の使ひ方を刷り合はせた結果として、それなりにレポートできる会合に成ってゐたのかなと思ひました(それでも私の視点からのレポートだけではやはり不足なので、他の参加者の方も短い感想なりレポートなりを書いてくれると私は嬉しいですし、議論もヨリ建設的なものになるかとは思ひます)。
その後、小野田博一『絶対困らない議論の方法』の議論観(下記)を参照しながら、議論のあり方について高円寺での議論の様子を紹介しながら、話を進めました。
高円寺の議論のレポートを御覧になっても分かるかと思ひますが、哲学的な議論に特徴的なのは、極端に言ふと「論点先取で当たり前」といふことです。議論をすることによって、各々の観方はヨリ明晰になり、適切な表現を獲得することになりますが、しかしそれぞれやはりどこかで絶対的な前提を持ってゐて、お互いの間にある溝の深さが浮き彫りになって行きます。
ところが、一方でこの溝の深さが明らかになればなるほど観念的に相手の立場に立ち易くなるといふことも言へるわけですね(おお、逆説的!)。
S代表は私のこの感想を受けて、「高円寺の議論では、次第にお互ひの立場が明らかになってゐき、或る具体的事例について、相手の立場に立って考へたり、相手の立場からの論理的強制を利用して相手を罠にハメることさへできるやうになる。この意味で、哲学は思考訓練として有意義だと自分は考へる」と述べました。普段「哲学は思考訓練」とのS代表の観方を聞いてもどうもピンと来なかった私ですが、このやうに聴くとなるほどさういふ観方になるのも尤もだと思へます。
なほ次回は5月20日土曜日に行ふ予定です。
以下、今回使用したレジュメを列挙しておきます。パースの学説のレジュメの「絶対的断言」の項には断言した文(「~できません」)が書いてありますが、これは私のミスです。パースはこんな言ひ方はしてをりません。また、今回を反省してみるに、もっと論点を強調したレジュメを作れなくてはいけないと感じました。
また、小野田氏の議論観を記したレジュメについては、やはり「議論できない人を説得する方法の方が知りたい」との声がありました。小野田氏の「議論」は知的な遊びであり、極めて限定的な状況でのみ成立するものですから、議論の参加者が協力的でないと難しいのは当然ですね。また、原則論だけで小野田氏の本の強みを示すのは難しいと感じました(私はむしろ具体例がこの本のおもしろいところだと思ふので)。
【ここまでの文字数:約1800字】
論理学の第一規則
パース『連続性の哲学』(伊藤邦武編訳、岩波文庫、2001)から、「第二章 論理学の第一規則」をまとめました。
1.優れた推論は自己訂正する
人間の推論一般の素晴らしい性質はそれが基本的に自分自身を訂正する可能性を持ってゐることです。推論は賢く計画づけられてゐるほど自己訂正の可能性が大きくなるもので、ときには結論を訂正するだけでなく、前提を訂正することもあります。アリストテレスは蓋然的推論について、必然的推論のやうに結論が前提と同様の確かさを持つことはないと述べてゐますが、それならば推論に推論を重ねてできあがってゐる科学はたちまち破綻してしまふでせう。しかし、例へば推論の結果得られた天体表の基準星の位置は、この位置を演繹するために使はれた観測結果のどれよりも正確であることは天文学者の常識です。
ここで言ふ推論には以下の三種類があります。
- 帰納的推論
- まづ、帰納的推論が自己訂正することは明白です。例へば国勢調査で得られた個々の数字に回答者のバイアスがかかってゐるとしても、結論として出て来る数字はそれらのバイアスを相殺し、ヨリ適切なものになってゐるはずです。
- 演繹的推論
- 演繹的推論の代表は数学です。数学と言へども人間のなすことですから、その点で誤謬を免れないわけにはいきません。ただし、数学の訂正作用は自然科学ほど速やかでもなく、確実でもありません。数学的推論の持つ確実性は或る誤りについて指摘されるとすぐに全世界がそれに同意する、といふ点にあります。
- 仮説形成的推論
- 地質学や進化論などの説明的科学では、仮説形成的推論を用ゐて探求がなされてゐます。これらの科学は常に論争にさらされるものですが、歴史的にみればやはり誠実な探求者の精神において決着をみるものです。ただし、数学的推論と違ひ、一般に認められた結論が常に論理的であり正当であるとは限らないといふ留保が必要です。
2.理性の自己訂正はあらゆる推論に通底する
これまでの考へ方では、推論の自己訂正が本質的・内在的・不可避的なのは帰納的推論だけだと見做されて来ました。しかし、演繹にも仮説形成にも帰納と同型の思考過程を見出すことができます。
- 演繹法
- 演繹作業には次の三つの要素があります。
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- 総括:すべての前提を書き記し、諸前提を一個の連言命題にまとめる
- 複製:前提のうち、いくつかのものを複製する
- 消去:そこから不要な部分を取り除く
- 演繹はこれらの要素の繰返しによる実験と結果の観察から構成されてゐます。次に見る帰納と比べれば、演繹は一回しか実験を行はないやうに見えますが、これは斉一性の知識によるものです。斉一性の知識は、何度も検算したり、考へ直したりして自己訂正した結果として出て来るものなのです。
- 帰納法
- 帰納においても演繹に対応して三要素を認めることができます。
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- 総括:前提となる具体的な諸事例の観察
- 複製:同じ事例を二回観察すること(相対的帰納法において基準となる参照例)
- 消去:基準とした参照例を消去して母集団の性格と直接に結び付いてゐるやうな事例の集合・システムを残す
- 仮説形成
-
- 総括:観察事実のまとめ
- 複製:これに対応するものは生じたり生じなかったりする
- 消去:前提に含まれた特殊な要素は仮説において潜在的なものになる
- 採用された仮説の内容が研究されていくにつれて、仮説は変容・訂正・増幅を被ることになりますが、それが元々は経験を基盤にしてゐるといふことから、さうした変化は自然なものとなるでせう。
3.真理へ至るための条件は探究心である
あらゆる推論は自己訂正の力を持ちます。ですから、真理を学ぶために必要な条件は真理を学ぶことを積極的に望むことです。出発点がいかに誤ってゐても、真理への真摯な欲求を持ち、経験を充分に長く積めば、真理に辿り着くことができるでせう。
この「学ばうとする意志」の本質的要素は自分自身の現在の信念に対する不満です。この不満から帰納的方法が生まれて来るのです。この方法には行き先が出発点での問題関心によって方向づけられてゐるといふ規則があり、帰納的方法を使ふ際にはこの規則を常に意識する必要があります。帰納的推論の妥当性はかうした方向付けに対する懐疑によって保たれるのです。この懐疑の構成要素として次の三つを挙げることができます。
- 私たちが何かを知らないといふ意識
- それを知りたいといふ欲求
- 真理は本当はどうあり得るかを積極的に確かめようとする努力
4.推論の第一規則
前段から推論の第一の規則は「人が何かを学ぶためには学ぼうと欲する必要があり、初めから心が傾いてゐる考へに満足してゐてはならない」といふことです。この規則からは「探求の途を塞いではならない」といふ系が導かれます。探求の途を塞ぎさへしなければ、私たちは自分の頭に浮かぶことを何でも試してみるべきなのです。
5.有害思想の四形態
一方で、真理へのさらなる進歩への道を塞ぐやうな哲学を立てることは有害です。以下、かうした有害な思想の四つの形態を挙げて注意を促しておきます。
- 絶対的断言
- 科学では何事についても確信を持つことはできません。あらゆる命題を疑いませう。
- 不可知論
- 今日答へが知られてゐない問題を挙げることは簡単ですが、それが明日も知り得ないと言ふのは危険です。或る事柄は絶対的に不可知であるといふ主張は探求の障碍になります。
- 基礎づけ主義
- 科学において、これこれの要素が客観的に根本的かつ究極的であり、他のものから独立であってそれ以上の説明を寄せ付けないのだと主張することは危険です。仮説形成ではこのやうな主張もできますが、仮説は事実を説明するために与へられるものですから、或る事実を「説明不能である」とする仮説はそもそも事実の説明にならず、正当化できません。
- 完全な定式化
- 既に知られてゐる法則や真理が最終的で完全な定式化を与へられてゐると主張するのは危険です。例外的な現象の可能性を絶対に否定するやうな推論は存在しません。
6.私たちの認識の不確かさと制限
科学が未完成であることは、なぜ空間は三次元しかないのか、なぜ引力が生じるのかといった難問のリストがあるといふことだけではなく、そもそも私たちの探求する範囲が狭いといふことでもあります。恐らく私たちが未だに知らないもので、力学的関係や社会学的関係と同様に現象同士を結び付け、或る現象から他の現象を導くやうな関係が何百とあるはずです。占星術・魔術・交霊術・予言などはさうした関係について幾らかの暗示を与へてくれます。
- 演繹法
- 私たちが持ってゐる知識は最も上等なものでもやはり不確実で非厳密なものと言はなければなりません。ただし、純粋数学に関しては、論理学的厳密さ以外のあらゆる点で厳密・確実だと言へます。しかし、純粋数学は現実に在る事物の科学ではなく、仮説についての科学です。それは内部で整合性を持つだけで、純粋数学が妥当する対象以外に何も存在しなくても自らの約束と目的を満たしてゐます。問題は数学が人間の他の仕事以上に本来の目標を達成してゐるかどうかといふことですが、もし数学がプラトン的世界の描写の試みであると言ふならば、これは現代数学の成果があまりにも小さくて判断できないと言ふほかありません。
- 帰納法
- 帰納は演繹よりもますます蓋然的・近似的です。帰納では例外が出て来る可能性を消すことができません。
- 仮説形成
- 仮説形成的推論では、どんな結論も確定的なものとして論理的に正当化することができません。
さて、仮説形成的な推論が確信を与へないとなると、次のやうな困難が出て来ます。科学的には仮説だが、実践的には完全に確実なものがあるのではないか――例へば、今世紀(19世紀)の初めにナポレオンが生存してゐたことは何百もの証拠の一致によって支持される仮説に過ぎません。しかし、だからといってナポレオンの存在を疑ふことはできません。かうした事実は仮説が確信を与へるものではないといふ命題とどう両立するのでせうか。
7.科学的真理と実践的真理
科学を純粋に捉へるなら、その唯一の目的は宇宙が科学に与へる教育を学ばうとすることです。科学は帰納的推論において経験的事実の前に屈するだけですが、同時に科学は経験だけでは不充分なことを発見し、自然に内在的な法則を見出さうとします。ところがそのやうにして立てられた法則は仮説のやうに主観的なものとなり、事実といふ基盤から離れてしまひます。科学は自分の位置が暫定的なものに過ぎないとして、更に検証や別の場所への移動を余儀なくされます。しかも私たちが見出す事実は常に部分的なものでしかありませんから、科学はしっかりした地面に立つことはできません。
一方で、実践においては、理論が事実と対照されるすべての機会の中から多くの事例が抽出され、その検討された全部分が理論を支持することが分かれば充分です。実践はこれを持って理論は帰納的に支持されたと考へ、理論を信ずる理由があると考へます。といふのも、信念とは或る命題に基いて大きな危険を冒す用意があるといふことだからです。
結局、非常に高い確実性があると見做される信念は科学ではなく、また、或る理論がもし科学であるならば、全く不確実で確信の材料にはならないといふことです。私たちがそれらを科学における確立した真理と呼ぶのは、これらの命題が努力の経済の点からして、「しばらく探求する必要ナシ」とされるからに過ぎません。
この意味で或る命題を真であると主張するには科学的な意味でさう言ふのか、それとも実践的な意味でさう言ふのかを区別する必要があります。
議論マニュアル(暫定版・2006/04/30)
ここでは小野田博一『絶対困らない議論の方法』(知的生き方文庫、1999)を土台にして議論の方法について考えてみましょう。
日本語の「議論」には大別して以下の二つがあり、これは英語でも同様だそうです。
- A.「君の議論は間違っている」【意見や考え方や理由などに近い意味】
- B.「私たちは三十分議論した」【上の意味の「議論」を交わしあうという意味】
Bの意味での議論は戦いであり、その限りで議論は場をわきまえたもの、楽しい遊びであることが好ましいと小野田氏は言います(専門家同士の議論はまた別とのことです)。
「議論」或いは「論」(argument)とは、根拠に支えられた主張のことと定義します。形式で言へば、「YだからXである」「Xである。なぜならばYだからだ」のカタチです。これに対して、反論とは「相手の議論の主張を否定すること」です。反論には二つの方法があります(なほ反論も「論」のひとつであり、主張+根拠の形式を取る必要があります。従って質問は反論ではありません)。
- L.相手の議論の根拠をアタックする
- M.相手の議論の「主張と根拠とのつながり」をアタックする
以下、小野田氏が「議論の心得」として挙げている六か条+αに沿って記述してみます。
1.人を見て議論してはいけない
その主張を行っている人間と主張そのものの強さは区別しましょう。「人は皆、健康のために喫煙すべきだ」と主張する人に対し、「喫煙家がそんなことを言う資格がないよ」と言うのは反論にはなっていません(p.54-55)。また、議論(B)では、相手を倒すのではなく、相手の主張を倒すことを心がけて下さい(p.45-47)。
2.「正しさ」を武器にしてはいけない
或る主張について、根拠をどこまでも質問していくことはできますが、永遠に答え続けることはできません。誰でも絶対だと見做していることがありますが、それは飽くまでもその人にとっての「絶対の真実」です。
3.相手に嫌がられるくらいくどくなれ
4.常識を根拠にしてはならない
5.察しのいい人になってはいけない
主張には常に理由・根拠を添えて下さい。相手が納得せざるを得ない根拠から相手の主張を反論するのが理想です。これには表現力が必要です。
また、あなたの常識が他の人にとっては有効な根拠ではないことはよくあることです。お互いに自分の常識や慣習に固執していては議論にゴールがなくなってしまいますから、常識を絶対的な根拠にすることはやめましょう(p.72-77)。
同様に、相手が自分と同じ常識にもとづいて話していると思ってはいけません。相手の主張に対して常に「なぜでしょうか?」と問いかけましょう。相手が根拠を述べたらその根拠に対してさらに問いかけて行きましょう。相手の意見、相手の立場に耳を傾けることで、反論はヨリ有効なものになり、議論は建設的になることが期待できます。
6.勝てないなら相手を混乱させよ
たとえ論点のズレた詭弁であっても(主張+根拠)のカタチを守って論理的に屁理屈をコネましょう。
補.ただし、話の通じない人とは同じ土俵に上がらないこと
そもそも議論(相互に主張を述べ、論点を共有し、根拠を掘り下げあうこと)は極めて狭い範囲でしか成立しないものです。口ゲンカや世間話、感想、質問、知識の授受などは議論ではありません。議論ができない人とは議論をしない(敢えて避ける)ほうが人間関係をこじらせずに済むでしょう。
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コメント
以下に参加者の方のレポートを挙げておきます。
第1廻京都哲学道場の私的レポート
http://www.geocities.jp/itikun01/hibi/zat6.html
生命は自発的である
http://www.e-net.or.jp/user/umineko/SU_20060430.html
投稿: 深草周 | 2006年5月 8日 (月曜日) 21時29分