第2回京都哲学道場
まづ、私がシジウィックの学説の解説本をさらに要約したものを発表したのですが、これが長過ぎました(A4×10枚)。
ただし、シジウィック自身の主張は明解なもので、利己主義(利己的快楽説)・功利主義(普遍的快楽説)・教義的直観主義(義務論や徳論に相当するもの)の三つを検討し、教義的直観主義を体系的で一貫性のある学問足り得ないと却下するといふものです。例へば、常識的道徳は教義的直観主義の「教義」の典型例ですが、シジウィックによれば、これらの徳目には限界や例外があり、また、究極的に目指されるべきもの(善)であるとは考へられないといふことから倫理学の基礎には据えられないといふことになるのです。
シジウィックによれば、それ自体で目指されるべきもの=他のものの手段には絶対ならないもの(究極目的=究極的善)は快楽(望ましい感情)であり、この意味で、私たちは快楽の合計量の最大化を目指すべきだと言ひます。ただし、このことは快楽の総量といふモノサシしか究極的基準足り得ないといふ意味であり、必ずしも意識的にそのモノサシを使へといふ意味ではありません(このモノサシを意識せずに常識的道徳に従って行動した方が得られる快の総量が大きくなる場合もあるとシジウィックは考へます)。
かうして快楽説が支持され、あらゆる感覚的存在に対して公平な視点を採ることで功利主義が支持されるのですが、もし社会の利益と個人の利益とが衝突すれば、個人が「私は『公平な視点』などといふものを採らない」とすることで利己主義に走る可能性が残されてしまひます。シジウィックはあらゆる理性的存在の快楽総量の最大化を図る功利主義と、自分の生涯に渡る快楽総量の最大化のみを図る利己主義との決着をつけることができませんでした(これを「実践理性の二元性」といふさうです)。
次に、参加者から出た疑義の一部(私が把握できたもの)を紹介します。
ミネルバの袋鰻氏からは、「倫理学は人格の善さを扱ふべきだ」といふ意見がありました。これはシジウィックの見解「倫理学は行為の規範を研究すべきである」に対立するものです。シジウィックは性格の善さも究極的にはその人の行為の善さに還元できると考へてゐるやうで、「性格の善さ」などといふものは直接に研究できるものではないし、外から見える行為から出発するのでなければ客観的学問にはならないと観てゐます。一方で、ミネルバの袋鰻氏は内観によって自分の人格についてはその善さを観察できると考へ、なほかつ、万人が善さを共有してゐるはずだといふ前提に立って自分の意見を述べてゐます。私としては性格と行為とを切り離して考へてゐない分、シジウィックの見解の方が具体的であり、支持したいと思ひます。一方で、ミネルバの袋鰻氏の見解は、人格について或る種の普遍性を前提にしないと受容れ難いといふ意味で、押し付けがましいものになる危険性をはらんでゐるやうに思ひます。
また、拷問や冤罪の善悪について私とミネルバの袋鰻氏の間で紛糾しました。ミネルバの袋鰻氏はこれらは悪であるとの認識でしたが、私は必ずしもさうとは言へない、国家が権威を保つためには拷問や冤罪が支持される場合もあり得ると答へました。シジウィックの立場からは、国威が保てないことによってさらに多くの不快(例へば国家の崩壊)が帰結するのであれば、拷問や冤罪もやむなしと考へられます。しかし、結局のところ、シジウィックは個人の行為規範を問題にしてゐるだけであり、拷問や冤罪と言ったテーマは政治学の範疇に属する問題だとも考へられます。シジウィックの立場では抽象的個人を扱ふだけに、このやうな政治的な状況判断については政治学に下駄を預けなければならないのかもしれません(これは私がさうだらうと思ふといふだけです。シジウィックが他でどう言ってゐるかは分かりません)。
aryu氏からは二点について質問がありました。
第一に、シジウィックの言ふ「教義的直観主義」と「哲学的直観主義」との違ひが分からないといふ指摘です。
シジウィックは直観主義について三種類の区分を行なってゐます。
- 知覚的直観主義
- 教義的直観主義
- 哲学的直観主義
まづ、知覚的直観主義は「己の良心の声に従ふべし」とでも言ひ表せるもので、なすべき行為はその都度理性の命令で決定できるはずだといふものです。itikun氏の「利己主義思想」はこの立場ださうです。しかし、シジウィックはこのやうな主観的な見解は体系的な学問に採用できるものではないとしてこれを退けてゐます。
次に、教義的直観主義ですが、これは直観的に(無前提に・理屈抜きに)得られた幾つかの教義に基いて行為すべきであるといふ見解です。「教義」が直接に行為の善悪を判定します。
そして、哲学的直観主義ですが、これは直観的に得られた抽象的公理に基いて行為すべきであるといふ見解です。「教義」が行為の善悪を直接に判定できるのに対し、「公理」はそこから推論によって具体的規範を導かなければ役に立ちません。「教義」はすぐに使へるので、「教義的直観主義」は「功利主義」「利己主義」と並ぶ具体的方法足り得るといふのがシジウィックの考へ方です。なほ、シジウィック自身は哲学的直観主義者でした。
第二に、シジウィックにおける「理性」とは何か、といふ指摘です。
今回参照した『シジウィックと現代功利主義』によれば、シジウィックは当初「理性」について論じてゐたのですが、その後の著作では「『理性』なるものが本当に在るのか」といふ反駁を恐れて理性的機能(例へば倫理的な命令)を列挙するに留めたさうです。従って、今回のレジュメで言ふ「理性的」「合理的」なる語も、一貫性があること、体系的であること、現実的であることなどを意味する言葉に過ぎません。
これらの質疑応答や具体例への適用に関する議論の後、廣松渉の「共同主観性」論や、そこから存在論にまで踏み込むS代表の立場を解説しましたが、これは知識の共有のために行なったものですし、(哲学道場高円寺での議論に比べて)特別進展は見られなかったと思はれるので、私からは特に書きません。参加者に聞いてみたところ、倫理学(実践哲学)の話よりも廣松のやうな理論哲学の話の方が議論できるとのことでしたので、来月は理論哲学方面のレジュメを持って来ます。
来月の京都哲学道場は6月4日(日)に開催します。
【約2700字】
関連リンク
- 第2廻京都哲学道場の私的レポート(itikun氏)
なほ、以下に今回廣松の立場を説明するのに再使用した文書を挙げておきます。これはどんさい氏の「共同主観性についての疑問」に対する廣松の立場からの回答です。
「共同主観性についての疑問(2005/10/01)」への回答
廣松渉「共同主観性の存在論的基礎」 の立場から回答を試みます。
1.主観は正当な根拠なのか
主観は私としての主観と我々としての主観性(共同主観性)とに二重化してゐます。私としての主観は多様ですが、我々としての主観性は一致します。
廣松は "反省以前的な意識に現れるがままの世界" "いわば童心に映ずるがままの世界" をフェノメナルな世界、それを形成してゐる諸部分をフェノメノンと呼び、ここから考察を始めます。このフェノメナルな世界といふのは、もちろん誰か特定の個人に開けてくる世界なのですが、廣松はこの世界の中に分析して四肢構造を見出します。
まづ、私たちが対象世界を見るときは、単に感覚してゐるわけではありません。感性的な対象世界の中に概念的なものをつかみとってゐます。テーブルの上にあるのは、「コーヒーカップ」であり、それは単なる色の知覚以上のものです。また、眼を閉じてもう一度それを見るときには、例へ多少向きが変わってゐたとしても同じコーヒーカップとして認識してゐます。また、この「コーヒーカップ」といふ概念はどのコーヒーカップにも普遍的に適用できますが、それ自体はどのコーヒーカップでもありません(普遍性)。また、個々のコーヒーカップが製造されたり、破壊されたりしても、概念としての「コーヒーカップ」に変化はありません(不易性)。
この意味で対象世界は生々流転する所与の世界と、観念的な意味の世界とに分析できます。
一方で、フェノメナルな世界は常に誰か特定の個人に開けてくる世界でもあります。例へば、子供が牛を見て「ワンワンだ」と言ふ場合、そのフェノメノンが「ワンワン」としてあるのはその子供に対してです。もし私がその子供の誤りを理解したとすると、私は観念的に一旦その子供の立場に立って、自分の立場と比べてみるといふ過程を経たことになります。私は「子供としての私」と「私としての私」とに二重化しつつ、しかも同じ私であるわけです。かうした「自己分裂的自己統一」によって、知識の伝達および共有が可能になります。知識の伝達とは、所与の捉へ方、即ち意味の世界を共有することです。意識の働かせ方のパターンが共通化することで、私たちはこれを「コーヒーカップ」として捉へることができるのです。私たちには同じコーヒーカップ(感性的所与)が見えてゐるわけではありませんが、皆同じ「コーヒーカップ」(超感性的意味)を観てゐます。この共有化された意識作用が共同主観性です。前回説明した「先験的自我」(ヒトとしての私)も共同主観性のひとつです。意識の働かせ方のパターンが共通化してゐる点では、同じ制度や文化を共有してゐる人々は同じ共同主観性を共有してゐると言へます。もちろん、或る個人がいくつもの制度・文化にまたがってゐるのが通常ですから、個人は異なる共同主観性をいくつも持つことになるでせう。
2.共同はどのように保証されるのか。共通理解は成り立っているのか
共同主観性における同型性は協働によって成り立ちます。対象世界において個々のコーヒーカップと概念としての「コーヒーカップ」とが分析できたやうに、他者に対しても、そこから役柄を分析することができます。他者もまた、単なる他者ではなくて、ときには「先生」、ときには「社員」、ときには「魚屋」として、社会の中で多様な役柄を持ち、多くの場合、個性的な側面よりもかうした役柄としての側面のはうが重視されます。つまり、「コンビニの店員」としてきちんと役割さへ果してくれれば、客は店員の個性などには基本的にはかまひません。協働とは社会の中でお互ひに相手の役柄を意識しながら、共同作業することです(前回は餅つきの例を挙げました)。この作業によって、意識の働かせ方のパターンが共通化(同型化)され、新たな共同主観性が生まれます。
また、言語(ラング)は協働に大きく関与するものですが、言語もまた、ひとつの共同主観性であり、協働を通じて歴史的に形成されたものです。
3.人知の及ばない世界は存在しないのか
『世界の共同主観的存在構造』では、これについて言及してゐないと思ひますし、またマルクス主義者(唯物論者)であるはずの廣松渉の立場からしても支持し難いと思ひますが、S代表の解釈から斟酌して述べてみます。
S代表の立場としては、「先験的主観」、即ち、取り得る限りで最も広い共同主観性=ヒトとしての共同主観性から見て、不可知の世界も意識される限りでその射程に入ってゐるといふことだと思はれます。ですから、「人知の及ばない世界」と意識化されてゐる時点で存在する(共同主観性の中で意味を持つ)ことになりますが、未だ誰にも意識されないやうな超越的な世界は記述不能です。
3-1.共同主観の「主観」、「対象」とは何か。
上述の通りです。例へば、「日本人としての私」(共同主観性)に対する「鈴虫が鳴く風情」(対象的意味)といったやうなものです。同じ所与であっても、日本人と異なる共同主観性を持つ欧米人には鈴虫の鳴き声も雑音でしかありません。
3-2.共同主観の「現象」とは何か。「分断された客観そのもの、主観そのものは存在しない。すべては現象として存在する。」現象がすべてであるなら「非現象」もなく、存在を定義したことにはならない。
「現象」は、廣松の言に即せば、「フェノメナルな世界」および「フェノメノン」に同義です。
S代表の立場に拠りますと、「存在」をどのやうに定義しようとも、共同主観性の一種として定義されたことに変りはないから、存在よりも共同主観性が先立つといふわけです。つまり、私たちがこの白いコーヒーカップが存在すると思ふのは、既に形成された存在観(共同主観性の一種)によってのみ可能であるといふことです。もし一切の共同主観性がなければ、ただ現象が広がってゐるだけで、存在も非存在もありません。
3-3.「歴史化された自然」は歴史化される前の自然を認めているではないか。
廣松がここで自然と言ってゐるのは、差当りフェノメナルな世界のことです。つまり、廣松がメタレベルから四肢構造を分析する以前にある現象世界には、意味の世界といふフェノメノンが不可分に備はってをり、フェノメナルな世界が先行する共同主観性によって既にパターン化されてゐるといふのが、廣松の「歴史化された自然」の意味です。
4.無意識の自分を否定するのか
否定しません。ただし、無意識が「個々人の頭の中にある」といふやうな「内属」は臆断と考へます。人類がゐなければ、共同主観性は存立できませんが、共同主観性が全く独立に(脳がそれぞれの頭蓋に在るやうに)それぞれの個人に内属するとは言へません。私に開けてくるフェノメナルな世界は、私がサングラスをかければ一変します。しかし、だからといって、このフェノメナルな世界において私が特別な存在とは言へません。私に聞こえてゐる時計の音は、私の聴覚神経を切断すれば止みますが、だからといって時計の音にとって私が特別な存在でないのと同じです。フェノメナルな世界が私と切離せないながらも私に内属するとは言へない以上、フェノメノンである共同主観性も私に内属するとは言へません。私が死んだとしても「日本語」といふ共同主観性は残ります。
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