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2006年6月 6日 (火曜日)

レジュメ@第03回京哲

京都市左京区一乗寺で開催されてゐる哲学討論会の第3回に使用されたレジュメです。

第一章だけを取り出して要約してみたのですが、個人の認識から社会的認識や社会制度が現れるといふ下りは結局説明不足になってしまったやうです。部分的に要約する場合でも本の全体を読んでから行ふ方が好ましいといふことですね(今回の本は一応一回通読してはあったのですが、個人と社会の関係といふ点では全く読めてゐませんでした)。また、今回は「自由と必然」などが論点になるかなと予想して仕組んでみたのですが、これも完全にハズれて、議論にはなりませんでした。もう一点付け加へると、術語「記号」の説明が不足してゐたのが失敗でした(これはまた報告で取上げます)。


持ちつ持たれつ

沢田允茂『認識の風景』(岩波書店、1975)から「Ⅰ 環境の風景」に相当する部分をまとめました(以下、沢田氏の主張に沿って書いてあります)。

1.風景としての知覚

人間の認識と環境的自然との出会ひの出発点、それは知覚の風景です。知覚の風景は常に誰かにとっての風景であり、また、常に風景の全てではありません。私は感覚能力や感覚能力を拡張してくれる機器(望遠鏡など)から制約されて、常に或る限られた範囲の全体を眺めるに過ぎないからです。

伝統的な哲学では「風景」を「感性」や「知覚」と呼んでゐます。哲学では、確実な知識を提供してくれるのは「感性」なのか「理性」なのかが問題とされてきました【合理論と経験論との対立】。また、心理学で知覚が問題にされる場合には、知覚が生じる条件の調査や精度・範囲の測定などの分析が中心になるやうです。

しかしここでは、「感性か理性か」といふ形で「知る」機能のどの部分を強調するかではなく、「知る」といふ働きの全体を捉へたいと考へます。また、「知る」メカニズム単独を取上げた分析ではなく、「知る」といふ現象を行動や行動の対象となる環境的世界の中でどう意味づけるかを探りたいと考へます【分析的視点から総合的視点へ】。

生態学(ecology)の原則「全ての生物は特定の自然的環境の中でそれとの相互関係の下に生存してゐる」を経験に適用してみると、次のやうな命題が考へられます。

「私は私の風景的環境を持って(知覚して)をり、そしてその中で生きてゐる」

まづこの断定の前半を分析しますと、前半の所有格「私の」は「私がコントロール可能である」といふ意味です。しかし、「コントロール可能」と言っても絶対的な自由が実現してゐるといふ意味ではありません。私が或るシステム(例へば私の身体)をコントロールするためには、そのシステム固有のメカニズムに従ふ必要があります。或るシステムをコントロールすることは、そのシステムの持つ制約に従ふことであり、或る意味では、私自身もそのシステムの私になる必要があります【自由と制約との二重性格】。

しかし、或る面では自由、他面では制約といふことについて、「或る面」とか「他面」とかいふ表現で指示される領域の違ひが明示されないと、表現が自己矛盾的な印象を与へることになり、しかもこのやうな表現が経験的印象にも合ふならば、それをそのまま存在化(絶対化)しがちになります。「自由即必然」や「支配することは支配されることである」といふやうな自己矛盾的表現は、形式論理的な思考にショックを与へてヨリ明確な対象把握を促す効果があるかもしれません。しかし反面、逆説的な言ひ方自体に満足して、ヨリ明確に事態を分析・説明する努力に水が差されるといふ危険もあります。

この危険はシステムの概念を用ゐれば避けることができるでせう。例へば、「私の身体」についての自由と必然的決定との矛盾するやうに思はれる表現は、次のやうに言ひ直せます。

身体を構成する各部分のメカニズムのシステムAと、Aを含んだ上に目的や障碍となる存在者までも含んだシステムBとを区別して考へます。A内部の行動や変化についてだけ語れば、すべては決定・制約された行動や変化として語られます。しかし、BにおけるAの目的的行動については「目的に向っての自由な行為」とか「障碍からの自由な行為」と語られます。従って形式論理的には自己矛盾的に見える表現も、対象の異なる領域についての発言であると分かれば、矛盾的表現ではなく、一つの対象をヨリ包括的な問題領域の中で矛盾なく説明しようとする説明の仕方であることが明らかになるでせう。

「私は私の風景的環境を持って(知覚して)をり、そしてその中で生きてゐる」

次に断定の後半部分について分析します。私の行動決定はそれが無意識的であれ本能的であれ、私の風景を地盤としてなされます。わたしは環境の風景の中で行動を決定し実行します。中にゐるからこそ、私は外部の変化や運動に対して自分の身体を上手くコントロールできるのです。逆に、外部を制御し易いやうに自分の心や意識を制御することもできます。

また、私の風景の持つ意味はこのやうに現実の行動を制御することだけではありません。私が取るであらう可能な行動も全て私の風景に基いてゐます。私が私の風景を持つことは私が生きてゐなければ不可能であり、また、風景内部において私が生存を可能にするために、「私が私の風景を持ってゐる」といふ事態が成立してゐます。私が(私の)風景を持ち、(私の)風景が私を持つといふつながりを忘れ、私の生活が私の風景の中で自由にコントロールされなくなると、私の行為は生活行為としての意味を失ふことになるでせう【私と風景との持ち合ひ関係】。

2.知覚像

私の風景は既に存在する諸々の対象に一定の秩序・組織を与へることで成立します【構成説】。私たちはこのやうな主観的な秩序だけでなく、対象自身の秩序を知ることになりますが、それも私の立場から風景が組織化されてゐて初めて可能になることです。風景の詳細化・精密化や理論上の風景が観測風景と合致することを通じて、私の風景の延長として客観的な風景が成立します【主観的風景と客観的風景とは両立する】。

私の風景は何で構成されてゐるのかといふ問ひに対し、「例へば土地や岩や山や植物などから構成されてゐる」と答へる人と「さうではない、風景はそれらの知覚像から構成されてゐるのだ」と答へる人がゐます。この問題は認識論の中心テーマのひとつです【現象論と実在論の対立】。

現象論と実在論の対立は、感性と理性とを対立させる見方から出て来てゐます。しかし、感性的・個別的な知識も理性的・普遍的な知識も、知る働き全体の一部であり、それぞれ全体にとって不可欠な「知り方」です。「私の風景」から出発することで、感性か理性かの二者択一に陥ることなく、「私の風景の眺め」を生のままに構造分析し、解明できます。

私の眼球を指で軽く押してみると風景がブレて、一本の樹が二本になります。しかし、実在の樹がそこで二本になったとは考へられませんから、ここから私は知覚像を見てゐると考へられるでせう。ただし、例へば「洗濯する」といふ表現が、洗濯といふ目的に対してその手段を問題にしないやうに、多くの場合、知覚像は対象を見るための手段ですから、「私は富士山の知覚像を見る」などと言はず、「私は富士山を見る」と述べることになります。

そして一旦知覚像が形成されれば、その知覚像はそれが示す対象と同じ働きを私に及ぼし、私に対して知覚像が指示対象と同等の機能を獲得します。このことは「当の知覚像がその対象の記号になった」と表せます。記号は生物体の行動をヨリ合目的的にするための手段であると考へることができ、そのために記号は体系化・組織化され、拡大して行きます。この拡大も出発点たる個人の風景における認識と行為とのバランスのために行はれるべきですが、多くの場合、手段の拡大延長と同時にシステムのバランスが崩れる可能性が出てきます。このバランスの崩れが個人にとっての社会及びモラルの問題として現れるのであり、問題解決のためにはバランスの回復が要請されます。

3.イメージ

「イメージ」の特徴は、それが現に入力に入ってゐないが、かつての入力の記憶像を素材として利用し、知覚像の風景から抜け落ちた部分を埋めたり、その風景を拡大したりすることで知覚の風景を補填・補充してゐる、といふ点にあります。イメージは環境の風景の一部として風景を構成してゐるのです。

イメージは風景を空間的にも時間的にも拡大します。また、このやうに拡大された風景の各々の部分に対して、そこでの自分の行動のあり方やその部分に対する感情の反応などの色を重ねることができます。拡大された風景の上に私たちはさうした価値的反応を示す色を重ねてゐるのです。

イメージもまた記号として働きますが、これは知覚像とは異なり、指示対象と物理的必然性の関係を結びません。そこで、イメージを再構成し、風景の中に付加するための自発的な働きを仮定する必要があります。この働きが想像力です。

また、記号一般についてはその真理性が問題になります。知覚像の場合は、単独の像では真偽が問題にならず、飽くまで風景全体(複数の知覚像間の関係)の中で組織化し位置づけられないものが誤ってゐるとされますが、イメージの場合はそもそも対象との連帯感に欠けてをり、最初から真偽の問題を背負って想像されることになります。ただし、イメージも合目的的な行動に奉仕するものですから、知覚像によって検証・訂正されて行きます。

4.風景の意味

知覚像とイメージから構成される環境の風景は、そこから拡大された知識が発生する基盤であると同時に、拡大された知識が人間の生存に役立つ知恵となるために戻らなければならない母体でもあります。

風景を拡大して行くと、拡大された部分については段々と私の風景も他人の風景も差異がなくなって行き、私にも他人にも共通な我々の風景を見るやうになります。

かうしてといふ意識・態度から我々といふ共通な意識・態度の発生を説明してみると、私たちが眺めるヨリ大きなシステムの風景が問題になるにつれて、その風景に対する知識やそれを制御するための行動も私たちが協同して行ふべき私たちの行為といふ意識・態度が生まれて来ます。

イメージなる言葉が元来視覚像を表す語であることから、抽象的な記号や記号的表現にそのやうな視覚像への直接の関連がない場合、それにイメージを要求することが意味をなさないのではないかといふ疑問があるかもしれません。一般的に言ふなら、イメージとは或る対象に関して私が持ってゐる情報の特定のパターンです。論理式を計算する場合を考へてみると、操作のパターンを感じますが、これは感覚的なものではありません。また、「タンゴは踊れないがワルツなら踊れます」と言ふとき、私が踊れる「ワルツ」について持ってゐるイメージは行為の可能性もしくは能力をパターン化したものです。このやうなイメージは私の風景の他の多くの部分と関係づけられて存在してゐます。

西欧の近代文化は、「科学的知識の進歩が人間の知識を拡大するなら、それに比例して人間の生活もまたヨリ幸福で完全なものになる」といふ条件命題を無根拠に自明のものとして、これを言はば近代文化の公理として近代的生活の政策を導出して来ました。しかし、この公理は近代人の思想と生活の中に様々な矛盾を創り出してきました。今日、この条件命題を変更し、新しいイメージ、新しい環境の風景を創り出すことが私たちには要請されます。

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