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2006年6月19日 (月曜日)

第16回哲学道場高円寺「意識」

東京・高円寺で哲学の討論会を開催してゐます。今回(6月17日)の参加者は、どんさいさん、アムロさん、a-rainさん、おのざわさん、崎山(S代表)さん、dualityさん、深草の7名でした。

今回のテーマは「意識」です。まづ私がレジュメを発表し、意識(心)と脳(或いは身体)との関係について、唯物論、二元論、不可知論の立場を簡単に解説し、レジュメの内容について多少質疑応答してから、議論に入りました。

意識の定義

崎山さんが「身も蓋もないことを言ふけれども」と前置きして、「『意識』は観測者の主観によって決められる」と主張します。自然物であれ、動植物であれ、或いは植物人間であれ、認めたいものには自由に「意識」を認めることができるといふことです。そして、「意識」といふ言葉で確実に共有されてゐる実体などは存在しないと考へるやうです。アムロさんやa-rainさんもこの考へになびきました。

しかし、「Xには意識がある」といふ判断をするとき、大抵の場合「私にとってXには意識がある」といふことまでを含意しないやうに私は思ひます。Xに意識を認めるとき、「私は紅茶が好きだ」といふのと似たやうな意味で「私は『Xに意識がある』と思ふ」と判断するのではありません。紅茶についての判断のやうに好き嫌ひの判断であれば、「私は」とか「私にとっては」といふ表現に相当する認識が含まれますが、「Xには意識がある」といふ事態はさういふ反省抜きに了解されるのであって、そこには「私が認識しようがしまいがXには意識がある」といふ気持ちがあるだけです。

道場ではここまでの発言に留まりましたが、ここではもう少し考へてみます。例へば、「私にとってXは意識がある」とハッキリ言ふ人に対して、「それは貴方にとって正しいに過ぎない」と述べるのは無意味です。ですから、「それは貴方にとって正しいに過ぎない」といふ応答は「(私が認識しようがしまいが)Xには意識がある」といふ端的な発言に対してなされるものだと考へられるでせう。

しかし、私が提出する「Xに意識がある」といふ命題に対して、「それは貴方にとって正しいに過ぎない」といふ一歩メタ・レベルの発言が許されるのであれば、同様に、私が「貴方の発言こそ貴方にとって正しいに過ぎない。私は『意識』について……(具体的な意識判定法などの説明)……このやうに正しく理解してゐるのであって、貴方が述べる『深草にとっての意識』は、貴方にとっての『深草にとっての【意識】』に過ぎない」。と言ひ返すこともできるでせう。つまり、以下の二つの主張が入れ子式に交互になされ、無限に繰り返されることになります。

  • A「Bの主張は、B以外の視点(他者の視点)から観るならば、Bにとって正しいだけだ」
  • B「他者の視点からみるならば、Aは『AにとってのBの主張』を否定してゐるに過ぎず、それは私の主張そのものを否定してゐるわけではない」

Aの主張をするのは楽です。単に反例を挙げればよいだけなのですから。しかし、Bの主張をなすのは困難です(もちろん困難だからといって完全に否定されるわけでもありません)。といふのも、Bは反例が出ないやうな具体的で一貫性のある理論を提出しなければならないからです。しかし、このやうな二種類の主張が交代に現れることによって、Bが提出する理論はヨリ具体的になって行き、Aも反論しにくくなって行くことでせう。

それにしても、ここまでの議論は単に「意識」といふ言葉について議論してゐるだけで、意識そのものについて議論してゐません。まさに机上の空論としての哲学といふ気がしますね(三浦先生が何に呆れたのか少し分かるやうな気がします)。

自意識過剰

私が「(男性が)ビデオ屋でポルノを借りると、女子店員の視線が異常に気になる」といふ例を挙げました。実際、店員は客の借りるものなどほとんど気にも留めないのに、借りる側からすると、過剰に相手を意識せずにはゐられないといふ状況です。

私としては単なる「自意識過剰」の典型例のつもりで出した例だったのですが、廣松渉に依拠する崎山さんからすると、「共同主観性」一元論の埒外にあったやうです。つまり、なぜエロビデオを借りるときに恥づかしいと思はずにはゐられないのかは「共同主観性」では説明できない現象だからです(「借りてはいけない」と思ふことなら恐らく説明できるのでせうが)。

感覚と意識

マッギン氏が「意識」の中に感覚を含めてゐたところから、意識と感覚との関係が問題になりました。

崎山さんは神経を伝はる電気信号の総量(刺激)の総量に対して、意識であるとされるものは部分集合をなすと主張します。また、dualityさんは、意識が多次元に渡るものであるとすれば、電気信号の分布はそれを神経に射影したものだと考へられると述べます(つまり、神経の状態は意識の影であるといふことです)。

一方、どんさいさんは、感覚と意識との関係は集合関係のやうに平面的なものではなく、飽くまで立体的なものであると主張します。感覚は意識に先立って存在しますが、意識は再帰過程であり、物質的生理的な過程とは別次元のものであると主張します。

一応このやうにまとめてみましたが、これは飽くまで私から観た議論(全体の一部もしくは一面)に過ぎないので、また参加者の方からの補遺・註釈などあればお願ひしたいと思ひます。

なほ、次回の哲学道場高円寺のテーマは「世間」です。7月1日(土)13:00に高円寺駅集合ですので、御問合せや参加・見学を希望される方はkusyaku_nikenあっとまーくyahoo.co.jpまでお願ひ致します。

【約2300字】

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