« レジュメ@第03回京哲 | トップページ | 無神経 »

2006年6月 6日 (火曜日)

第3回京都哲学道場

京都市左京区一乗寺で毎月哲学の討論会を行なってゐます。今回6月4日(日)の参加者は、suv氏、だいすけ氏、itikun氏、S代表、深草の五名でした。

まづ私が用意してきたレジュメ(沢田『認識の風景』第一章の要約)を発表しました。内容を大雑把に申しますと、個人である「私」の眺め(風景)を、感性的な部分とか理性的・概念的な部分とかに切り分けたり、或いは感性的な認識と理性的な認識とに価値序列をつけたりせずに生のままに分析しませうといふ話です。

そして、分析を重ねてみますと、眺めが私のものであるといふことは、それがコントロール可能であるといふことであり、さらに眺めがコントロール可能であるためには眺め自身が固有のシステムを持ってゐることが前提になってゐるといふことが明らかになります(例へば、自然は自然の法則性を知り、それに従ふことで支配できるといふやうなイメージでせうか)。

従って、或る面では私が風景を持つとも言へるし、別の面では風景に私が持たれてゐるとも言へます。このやうに私と風景が持ち合ひ関係を形成してゐることが私と風景とのつながりです。このやうなつながりが合目的的な協同作業によって社会にまで拡がってをり、社会の発展は個人の風景をさらに合目的的にせしめるはずなのですが、逆に複雑に発展した社会制度が個人を抑圧してゐるのが現実であり、それが問題だといふのがレジュメの内容でした。

個人の風景から社会の風景へ

共同主観性」一元論(平たく言へば、あらゆる認識は認識主体が属するコミュニティの文化によって決定されるといふ立場)を採るS代表は、個人の風景から社会の風景を構成するのは無理があると主張します。

社会と個人とどちらが先に存在したのか、個人の集合から社会ができたのか、社会が成り立って初めて個人が現れたのか、といふ問題から言へば、マルクス主義者廣松渉を背景に持つS代表は社会が先であり、社会なしに個人は存立し得ない(これは生物としてのヒトがゐなかったといふ意味ではないでせう)といふ立場を採ることになるのでせう。

私もホンネではさういふ批判をしたかった(三浦つとむ先生に師事してゐるので)のですが、しかしここでは分析哲学出身の沢田允茂氏の立場に立ってなるべく弁護に努めてみました。

私の解釈では、そもそも「風景」といふことで沢田氏が指示してゐるのは社会と個人とが共に成立した後の風景であり、出発点として個人の風景が置かれてゐるのは超越的な視点(神の視点)を排してゐるからだと思はれます。社会をその生成過程から述べる立場はこの逆で、事後的に成立したものから原初状態へと予想を積重ねていった後に、超越的な視点から生成を順を追って記述して行くことになります。沢田氏は日常的な風景から出発して、個人の風景に内在する社会の風景を見出さうとしますが、マルクス主義的な発想ではまづ社会のトータルな在り方を仮定し、そこから現在の社会の在り方やそこに含まれる個人の行為を分析し、説明して行くやうです。

S代表は「社会か個人か」といふ視点に拘ってゐたやうですが、私としては沢田氏の考へ方・述べ方も一つの立場として成立つやうに思はれました。ただ、今回は全般的に言葉が通じてゐないので、私がS代表の指摘を理解し切れてゐないといふ側面があるだらうとは思ひます。

「記号」

沢田氏は「記号」といふ術語を導入し、「対象→知覚像→認識」といふ三項図式において、知覚像は対象と同様の反応を認識にもたらすことから、これを「知覚像は対象の記号である」と説明します。この「記号(sign)」は日常的な用法から離れた単なる術語であると私は解釈してゐたのですが、どうやらかなり分かり難かったやうでしたので、テキストから引用の上、説明します(沢田允茂『認識の風景』(岩波書店、1975)p.59-61)。

一般にX(記号使用者)がYにたいして反応するのと同様な反応をZにたいしておこなう、ということが規則正しくおこなわれるとき、ZはYの記号である、といわれる。

……言語活動それ自体を全体としてみれば、それは人間の行為のより一層すすんだ制御を果すために存在しているものであり、直接的または間接的に人間の行為につながっていくものであることを見逃すことはできない。……人類全体としてみれば、すべての言語活動の結果は進化論的な環境への適応を目指した人間行為の制御という働きにつながっていくのである。純粋に記述と説明だけの仕事をしているのだと主張する理論物理学の理論も、それが全体として人間の財産である以上、必然的に技術を通じて人間の生活や自然環境の制御のために使用されるということはさけ得ないのである。

このやうな記述からも伺へることですが、沢田氏の発想は全く機能主義的です(その点は廣松氏も一緒ですが)。沢田氏は対象に直接反応する段階から、記号を媒介として間接的に反応する段階へと人間の能力が発展し、さらに記号によって得られた情報を総合することで、或る記号に対して直接に反応して行為に結び付けてよいものかどうかを判断できるやうになると言ひます。

このやうな対象‐記号の系列においては、サザエがナミヘイにとっては子であり、タラにとっては親でもあるといふやうに、或るものAがBにとっては記号であり、Cにとっては対象でもあるといふ自体が在り得ます。もちろん沢田氏は「それが何にとって記号であり、何にとって対象であるのか」を区別して語るべきだと言ふでせうが、S代表にはこの点がどうにも不満だったらしく、「そのやうな定義ではすべてが『記号』であると言へてしまふから、定義する意味がない。記号でないものの例を挙げてほしい」と述べてゐました。

意識と無意識

休憩を挟んで、話題が「無意識」に飛びました(レジュメとほとんど関係ありません)。S代表が「無意識」に関する諸説を提示し、「無意識はもうひとつの人格であるといふ説があるが、自分にはオカルティックに思はれてとても信じられないし、もしさういふ人格があるとしたら非常に嫌だ。自分は無意識は生理的な反応のうち、意識されないもの(暗黙知)であると考へてゐる」と述べました。しかし、私は意識といふのは現に積重なってゐるし、積重ねられるものだと考へてゐる(「無限後退」においてこれは顕著です)ので、「もう一人の自分」がゐるといふ説には大いに共感を覚えます。この「もう一人の自分」を制御することこそ自由の実現だとさへ思ってゐます。また、suv氏が「自分の中にはたくさんの自分がゐる。他者も或る意味では自分である」と自己と他者との同一性を述べてゐるのも共感できるところです。

ただ、無意識論については上述の議論よりもさらに言葉が通じてゐないので、そもそも何を話し合ってゐたのかすら私には思ひ出せません。他の人はひょっとすると私とは全く違ふことを考へてゐた可能性すらあります(^^;)。ま、ここら辺が哲学の醍醐味といふか、討論のダイナミズムであり、これを消化できる力が言はば哲学の実力でもあるんだらうとは思ひます。

独我論

「共同主観性」一元論は独我論に近いと私は主張しました。といふのも、「共同主観性」一元論者はどんな主張に対しても持論を曲げる可能性がないからです。視点と対象がベッタリくっついてゐるといふ点で、これは独我論者と共通するものを感じます。

で、話はそこから独我論に対する見方に移ります。私は「純粋な独我論者」、即ち外部から見れば「この世界は私の意志と完全に一致してをり、私の意志以外の如何なる意志も世界に現れることはない」とでも記述できるやうな「独我論者」はそもそも「論」を語らないのではないかと考へてゐます。また、他者とは自分の意志に反して動く存在であると考へます。suv氏はその意味で、「自分の中にも他者がゐる」と考へてゐるやうです。S代表は独我論者は他者に対して無関心な生き方にならざるを得ない人々を指してゐると言ひます。

まとまらない

今回の哲学道場には全くまとまりがありません。さう思ってゐるのは私だけかもしれませんが、とにかく言葉が通じません。従ってレポートも私の記憶力に制限された断片的な記述になるか、もしくは私自身の主張の記述に過ぎなくなってしまひます。言葉が通じないといふことは自分の視点がいかに狭く、また相手に合はせられないといふ意味で固定的であるかを思ひ知る事態です。しかし、この事態こそ哲学に固有の難しさであり、己の思惟を最前線で鍛へることではないでせうか。次回以降は何とか共通言語を創っていきたいと願ってゐます。

なほ、次回の「京都哲学道場」は7月16日(日)、東京開催となる「哲学道場高円寺」は6月17日(土)です。御問合せや参加申込などはkusyaku_nikenあっとまーくyahoo.co.jpまで、御気軽にどうぞ。

関連
第3廻京都哲学道場の私的レポート(itikunさん)

|

« レジュメ@第03回京哲 | トップページ | 無神経 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/19423/2102174

この記事へのトラックバック一覧です: 第3回京都哲学道場:

« レジュメ@第03回京哲 | トップページ | 無神経 »