レジュメ@第04回京哲
先の7月16日(日)に京都で開催された哲学討論会(第04回京都哲学道場)で使用されたレジュメ二稿です。一つ目は私のレジュメ、二つ目は崎山ワタルさんによるレジュメです。
古代の存在論
『連続をめぐる哲学――流れ・瞬間・同一性――』(田山令史・斉藤慶典編著、ミネルヴァ書房、2004)所収、納富信留「限定と無限」から、一部を要約しました。
エフェソスのヘラクレイトスは「万物が一である」と言って「ロゴス(言葉)」を真理とする一方で、「万物は流転する」「人は同じ川に二度入ることはできない」と述べて生成変化する世界観を示しました。ヘラクレイトスの弟子クラテュロスはさらに師の立場を推し進めて、「同じ川に一度入ることすらできない」と主張したとされます。世界に生成変化のみを認めて同一のものが通底してゐるのではないと考へていけば、言葉で何かを捉へることすらできなくなってしまひます。アリストテレスによれば、クラテュロスは「指頭を動かすのみであった」と伝へられてゐるさうです。
一方でプラトンは言葉中心の生成論を唱へました。「小が大になる」「1が2になる」といった変化は言葉では捉へ切れないものですが、そのやうな不連続的な変化(飛躍)は逆に言葉によって成立ってゐると考へられます。「小/大」「1/2」といった事態は流動する事物の中にあるのではなく、言葉によって成立ってゐる把握のあり方だとプラトンは考へます。プラトンにとっては「ある」といふ言葉が「なる」といふ事態に先行するのです。
プラトンに影響を与へたエレア派のパルメニデスは「ある」一元論を唱へました。この「ある」は純粋にして不生不滅の一なるものです。といふのも、もしそれが多であったり、変化するとすれば、それは「ない」ことと関はってしまって純粋な「ある」ではないからです。また、この論理は裏面に「無からは何も生じない」といふ原理を含んでゐます。
ところが、パルメニデスはこのやうに述べる一方で、「ある」は球面において限られてをり、有限であるとも主張しました。といふのも、何も限定がない状態であれば、そこには最早「ある」とされる根拠すらないからです。パルメニデスの弟子のメリッソスはこれに反対し、「ある」をそのやうに捉へるのではそこに外部――「ない」が浮かび上がってしまふとして、「ある」は空間的にも時間的にも無限であると唱へました。
プラトンは自分自身深く影響を受けながらも、このやうなパルメニデスらの学説を次の三点で批判します。一.言葉と指示対象とが分裂してゐる。二.「ない、はない」は自己論駁的である。三.連続的全体は多くの部分に分割されるはずだから、限定された「ある」「多」になり、「ない」を内包する。プラトンはかうした批判を通じて、「ある」と「ない」とを混同したり、無原理に結び付ける態度を退けてゐます。「ある」と「ない」との関係を飽くまで言葉によって適正に捉へようとするのがプラトンの態度でした。
哲学-三つの提題
はじめに
以下の三つの提題は、それぞれ、1哲学本来の問題、2哲学的思考に関する問題、3哲学的思考を応用する問題、といえる。それぞれの出自について述べると、1時間は、以前時間論コンペという企画に乗る形で書いたが、その企画が実施されなかったため、そのまま眠らせておいたものを採録したものに、時間の分類を補足したもの、2は、思考心理学という分野での議論を下に考案したものである。参考文献としては、市川伸一「考えることの科学」(中公新書)、山 祐嗣「思考・進化・文化」(ナカニシヤ出版)を挙げておく。3は、日々書きためている発想メモを膨らませたものである。
1 時間
第一信 時間自体が存在するという思いこみ
まずは、時間自体は存在しないということを論証します。
私たちは、時間というものが、私たちとは別に独自に存在していると思いこみがちです。したがって、時間は、仮に私たちがいなくなっても流れ続ける、等と思いこんでいたりします。しかし、これは信仰的前提を必要とすることにお気づきでしょうか。
目の前に缶があるとしましょう。この缶は何故存在するのでしょうか。私たちの多くは、「神が存在を与え占めているため」だの「この世界以外にイデア界が存在し、そこから缶を想起したりするため」だのとは考えないはずです。人がいれば目の前の缶に関する話をして食い違いがないかを確認するでしょう。自分一人の時には、自分の記憶と照らし合わせたり、五感で確かめたりするはずです。
時間もそうです。私たちは、他人の意識や自己の記憶と照合し、確かめることで時間が存在すると言っているに過ぎません。ただ、時間自体が存在するように思えてしまうような仕組みがあります。それは、現在の意識や記憶だけではなく、過去からの積み重ねで、<お約束>となったものです。それは、例えば時刻を時計で測ることであったり、地球の自転や仮想上の一定の変化(t0-t1)を単位の基準として総称される時間です。これは、時間自体が存在していて、それを測っているわけではないことに注意して下さい。私たちは、何らかの変化を基準にして測る作業をし、その作業の結果を、逆に時間と呼んでいるだけです。
また、これはイヌやネコ、サルなどを総称して動物という場合、その<動物自体>は実在しないこととも重なってきます。私たちは、そのイヌやネコやサルなどの総称を動物と呼んできたし、それを用いるのが他人とのコミュニケーション上、一番なのです。
このように、時間は人間独自の合意に基づく約束の束(単位系)から構成されており、実在するものではないのです。
第二信 「今」という「たとえ」
第一信では、時間が<お約束>であることを主張しました。しかし、時間どころか、厳密には「今」でさえ、お約束なのです。この便ではそれを説明しましょう。
今、自分がみている目の前の景色。私たちはこの瞬間瞬間の最先端を、それぞれ「今」と意識し、そう呼んでいます。しかしこの<今という瞬間>というのは本当でしょうか?目の前の景色が視覚信号として脳に到達し、認識ができるまでには、若干の時間差があります。このうち、どちらが<瞬間>なのでしょうか。
まず、認識した瞬間だという方は、天体観測のことを考えて下さい。100万光年先の星々を観測し、認識した時点をもって<瞬間>というのは、おかしなことです。私たちが観測し、認識しているのは、100万年前の星々のはずです。こんなに前の状態をもって<今>というのは、今という言葉を便宜上、あるいは比喩的に用いているに過ぎないことになります。今とは、認識した瞬間だ、というのは、たとえなのです。
それでは、認識という我々の内側にあるものではなく、時間差を取り除いた対象の状態だ、としてみましょう。しかしこれもおかしな事になります。
まず、物質は素粒子から成り立っている。この素粒子の瞬間的な状態をもって、<今>というのだ・・・、理論上はともかく、<今>の意味をそのように強弁される方は少ないでしょう。というのも、それでは世の中の圧倒的大多数の人々は、今を全く理解し得ないという事態になります。つまり私たちは、目で見たり触ったり、という知覚ができるようなレベルで<今>と呼んでいるはずです。次に、私たちは、全宇宙規模で物事を見るわけではなく、自分の周囲の部分的な世界で<今>を語ります。世界がどのような法則に従って動いているか、とは別の大きく誤った(誤差が多い)見方を、<今>と称しているのです。このように、私たちが使用している<今>と、専門物理的な意味での、理論上の<今>は、大きく異なります。
<今>とは私たちの認識の外側にある、時間差を取り除いた対象の状態という主張は、一つの定義(お約束)にはなりますが、多くの人が抱いている<今>の解答にはなりません。仮に専門性を盾にしても、素粒子レベルの<今>、天文学上の<今>、これを専門家同士で一致させることは至難の業でしょう。
それでは、<今>とは何でしょうか。それに解答を与えるには、場合分けの作業(記憶としての今、知覚としての今、分析としての今、など)が必要になりますが、一ついえることは、<今>というのも実際に存在しているわけではなく、総称があるにすぎず、便宜上、<今>という用語が使われているだけなのです。
補足1 時間の分類
「時間は、少なくとも以下の四つの異なる意味を含んでいる」
| 過去 | 現在 | 未来 | ||
| 1私的時間 | 記憶 | 自己意識 | 予想 | =体験モード<線分> |
| 2社会的時間 | 歴史 | 共通認識 | 予測 | =言語モード<半直線> |
| 3計測的時間 | なし | 単位の合計 | なし | =使用モード<点、線分、直線> |
| 4超越的時間 | (全て認識 | を超越して | 存在する) | =価値モード<パタン的軌跡> |
※2と3は相補的。1は2,3に包摂されており、4はオプション。
補足2 時間の生成と物象化
「時間は、序数的事実の記憶を基数的みなし、それを物象化したものである」
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