第10回までの哲学道場高円寺
事実上の第1回から第10回に至るまでの哲学道場高円寺の記録を編集しました。私の日記からの引用に関しては、一部人名(ハンドルネーム)に関して現在に合はせて改変しました。また、参照の便宜のために、引用文中にリンクを付け加へた箇所があります。
第一回(2005/02/04)
どんさい・崎山・三四郎・深草の四名で「世界観」について話し合ひました。
第二回(2005/04/02)
「根拠(拠り所)」について話したさうです。
第三回(2005/05/21)
参加者は確か三人のみだったと記憶してゐます。私が「対象」といふテーマでレジュメを切りました。
旧東海道を走り切り、サービスエリアで休憩してから、私と崎山氏はどんさい氏のもとに向かふ。場所は高円寺の某喫茶店。今囘は私が「對象」についてレジュメを切つた。あまりおもしろいことが書けなかつたと思ふが、なんとか盛り上げて頂いた。結局最後はなぜか世界觀の話に突入し、不可知論の是非を議論して、次囘(6月4日)は崎山氏がレジュメを切ることとなつた。餘談だが、途中でどんさいさんに「要約やつてるよね」と言はれ、ビビッた。これあウッカリしたことは書けねえぜ(書くけど)。
しかし、「京都からわざわざ東京にズバットやつて來て、哲學談義に明け暮れてズバット歸つて行く二人組」ッてェのもなんなんだろーね。
第四回(2005/06/04)
急病のため私が欠席した回です。duality氏が初参加された回ださうです。
第五回(2005/07/02)
「存在について」話したさうです。
第六回(2005/08/06)
これまた記憶と記録が無い回です。
第七回(2005/09/03)
去る九月三日高円寺某所にて、第七回の「哲学道場」。參加者は、どんさい氏、崎山氏、duality氏、私の四人。H氏はなぜか欠席。議論後半には週末パッカー氏も飛び込みで登場した。
雜談を交はした後、私が廣松「共同主観性の存在論的基礎」について發表。今回は存在論について議論するといふ流れだつたのだが、この論文には(無關係とは言はないまでも)存在そのものを全體的に取り扱つてゐないやうに思はれる。しかし、廣松を支持する崎山氏によれば「廣松はこの『共同主観性』によつて存在を基礎づけてゐる」のだといふ。廣松はともかく、實際崎山氏がこの論旨で議論を進めてゐたことは確かである(崎山氏も廣松とは微妙に異なる立場なんださうな)。
さて、廣松の論を簡單に振り返つてみよう。二者關係において、人が互ひに自他の言動を豫想すると、自分は實際に相手から視られてゐる自分とあるべき自分とに二重化し、相手も同樣に二重化する。この兩者二重化した構造をさらに兩者それぞれが意識してゐるわけだが、餠つきなどの共同作業(協働)を行ふことでこの兩者の意識がシンクロするのださうである。そしてこの抽象的なレベルでシンクロした主觀を廣松は「共同主観性」と呼ぶ。協働によつて形成される「共同主観性」は、實は意識の無限後退として現れる超越論的自我と同じものであり、歴史的社會的に相對的なものである、といふのが廣松の所論である。
しかし、それに存在が基礎づけられるとすると、單に「私がXを認識するから、Xは存在する」といふ主張の主語を替へて、「我々がXを認識するから、Xは存在する」と言つてゐるに過ぎないのではないか? このやうに言つてみたところ、崎山氏に「共同主觀性を『認識』といつて實體化するのは誤り」との指摘を受けた。確かに、廣松によれば、共同主觀性はモノではなくコトであり、個別主觀に内屬しないまでも個別主觀から離れて存するものではない。
しかし、それでも崎山氏のやうに共同主觀性で存在を基礎附けてしまふのは觀念論だと思ふし、少なくとも唯物論とは言ひ難い。しかし「觀念論だ!」と認定したから直ちに謬論だなどと言ふつもりもない(師匠の時代にはさういふ人がたくさんゐたやうだが「自分の頭で考へたことがあるのか」と思つてしまふ)。ちなみにこの意味で大雜把に分けると、どんさい氏と私はやはり唯物論者であり、崎山氏とduality氏は非唯物論者であるやうに思はれた。
ところで、私も崎山氏も議論においては盛んに圖を描く方である。そして崎山氏の圖(下圖左部)を觀てゐると、あることに氣附いた。
左:或る共同主觀性Aがさらに大きな共同主觀性Bに包まれていく圖。右:自己意識を表す入れ子構造形成作用が反映によつて形成されるの圖。共同主觀性A(例へば特定の文化など)が皆に理解されれば、共同主觀性BがAを内に含むものとして成立し得るといふ圖である。してみると、共同主觀性Aのもとに生きてゐる人々の存在は、共同主觀性Aに基礎を持つことになり、共同主觀性Aのもとに生きてゐる人々の存在は共同主觀性Bに解消することになる。つまり、存在は機能に解消するといふのである(コト的世界觀ッてヤツ?)。そして、この解消は當然いくらでも聯鎖し得る。共同主觀性Bがさらに大きな共同主觀性Cに解消したつてなんらおかしくないのだ。
なぜそのやうな結論になるのだらう……と考へてゐたところで、閃いたのが唯物論と反映論の結びつきである。上圖右部では、唯物論の立場から自己意識する人間を圖式化してゐるのだが、認識の外にゐる存在者は、對象化されて認識の中にゐる「私」に解消しない。唯物論を採るなら、存在はそれ自身の法則的性質にもとづいて生成消滅する實體とせねばならないし、認識にも機能にも還元されるはずがない。ここで初めて反映論が必要になる。存在を他に解消しない絶對的なモノとする以上、存在の對象化は存在の不完全なコピーであるとしなければならない。上圖左部に示したやうな共同主觀性の入れ子構造も、自己意識の無限後退が示す入れ子構造も、反映論を使へば、すべて認識内部における複雜化・立體化に過ぎないことになる。
このやうに考へ、崎山氏の主張と唯物論との對立點を認識論にまで踏み込んで指摘したことで、私自身唯物論(存在論)と反映論(認識論)との結びつきが明確になつてよかつたと思ふ(三浦つとむ汁に腦を浸しておいた甲斐があつたといふものだ)。しかし、これではまだ世界を崎山氏的に觀ることもできるし、唯物論的に觀ることもできるといふことを示したに過ぎないだらう。なぜ唯物論では存在を絶對的なモノと見做さなければならないのか、そこを探つてみる必要がある。いや、なぜそのやうな前提でモノに對することが「役に立つ」と言はれるのかを考へる必要があるといふべきか。といふのも、既に認識できた範圍で論じれば、觀念論にいとも簡單に足を掬はれることが今回の議論でよく分かつたからである。役に立つ/立たないの次元で論じなければ、觀念論を斥けることは不可能なのではなからうか。
一方、どんさい氏は對象化する私と對象化された「私」との絶對的關係を論じてゐた。ヒト個體に認識が機能として内屬するといふのが唯物論である以上、當然の立論であらう。しかし他者との關係において私の立場とはやや異なるやうにも思はれた。これには單なる用語の齟齬も考へられるが、やはり自分の考へをさらに整理する必要を痛感せずにはゐられない。
ともあれ、非常に收穫の多い議論だつた。來月もよろしくお願ひ申し候。
第八回(2005/10/01)
今回(10月1日)の哲學道場では、まづ實在論と唯名論との對立を扱つた論文を私が要約發表し、その後、普遍的とされてゐる「性質」にはどのやうなものがあるか、といふところに爭點が移つていつた。
どんさい氏は長さなどの物そのものの客觀的な性質である一次的性質と、「色」などの主觀の條件に左右される二次的性質とは區別すべきだと主張する。長さは他の物質との客觀的な關係によつて認識とは無關係に決定されてゐるが、「色」は對象にどんな種類の光線がどのやうに當たるかによつて認識のされ方が異なるといふ。
これに對し、崎山氏は對象の「色」がどう見えるかが光線の條件に規定されるのは、「長さ」が熱によつて變化するのと同じだと考へる。從つて崎山氏の立場からすると、すべての性質は主觀もしくは「共同主観性」の規定であり、どんさい氏の主張するやうな「客觀的な性質」などといふのはドグマに過ぎない。當然ながら、どんさい氏の言ふやうな「科學的」な見解はキリスト教の教義とさほど變はらないといふ結論になる。今回の崎山氏は明確に經驗批判的な立場であり、不可知論を採つてゐた。
私は二心分子(三浦つとむも哲學も好き)なので、どつちの立場にも附けるのだが、今回は崎山氏側に附かざるをえないやうに思はれた。これは自然科學の理解が足りないせゐなのかもしれない。ただ、いづれの立場を採るにしても、やはりどんさい氏の立場と崎山氏の立場とでは平行線を辿らざるをえないのではないだらうか。解釋の段階では唯物論の立場で超經驗的な客觀を導入して説明しようと、不可知論で説明しようと、どちらも辻褄があつてしまふのではないかと思つてしまふ。
なほ、三浦つとむに學ぶ人間としては、これは所謂「學の始原」の問題ではないかと思つてゐる。三浦もどんさい氏と同樣に認識とは無關係に存在し生成變化發展し得る客觀世界を認めてゐる。しかし、この「単純な世界観」はドグマではないし、アプリオリズムでもないはずである。ではこの「世界観」はどのやうに捉へられるべきなのか、といふことが問題になる。これは確かヘーゲルの始原論で問題になつてゐるはずだつたと記憶する。
もう少し具體的に述べてみよう。哲學は最も根本的な學問である。最近は流行らない見方のやうだが、「すべての學問を基礎附ける學問」だと考へてもいいだらう。だから、哲學は最も根本的な事實(始原)に自分の基礎を置かねばならない。だが、この事實の地位が問題なのである。最も根本にあるのだから、それは何にも媒介されないし、されるべきでない。即ち論證不要である。しかし、論證されないものを果たして私たちは確實で絶對な眞理と認めることができるだらうか? 眞理は媒介、即ち證明されなければならない。しかし、始原は始原である限り直接に與へられる眞理であるはずである。詳しくはまた本をひつくり返してみることにするが、ヘーゲルは直接に與へられたものが學の完成と共に媒介されることになると述べてゐたと記憶する。最初に直接に立てられた始原が最後に媒介され學の円環が閉じるといふイメージだ。なるほどここから最初に本質論を立てておくことの重要さは分かる。しかし、それは結局學問が完成するまでは假説に過ぎないのでないだらうか? さうすると結局不可知論に組することになるのではないか……、といふのが私が現在踏み惑つてゐる點である。
まとめ段階で「理論に対する誠実さと常識は乖離する」と言われたような。整合させることが誠実さだと思うのだが。
私も崎山氏も日常的常識的には勿論どんさい氏のやうに客觀世界を認めてゐる。しかし、媒介されたことのみを眞理と考へてしまふので、理論と實踐を分離する立場に立たざるを得ない。これは誠實さではなくて本質的に論理の問題であり、京都で以前開催されてゐた「哲学道場」でも議論はいつもここに歸着してゐたのである(そのときは崎山氏が唯物論を採り、プラトンを專攻するミネルバの袋鰻氏が觀念論を主張してゐた)。哲學史において、唯物論が理論的に觀念論及び不可知論を克服できなかつた原因は何なのか。そもそも理論的克服などする必要はないのか。そのあたりの事情を見極めてみたいと私は思つてゐる。
第九回(2005/11/19)
先週の土曜日(11/19)は第九回哲学道場@高円寺。参加者は六人。
最初に私が廣松渉の立場からどんさいさんの疑問に回答し、その後前回に引き続き第一次性質と第二次性質とは区別すべきや否や、云々。
廣松の立場からよくよく考へてみると、知られるモノのありかたと、知る側の感覚器官のありかたとは相対的にしか区別できないものであることに気づく。或るモノに光が反射してから、私がそれをコレコレの色だと感じるまでの間には連続した物理的生理的過程があり、どこまでが第一次的でどこからが第二次的なのかは、相対的に段階を設定することはできても、絶対的な区別を設けることはできない、とするのが廣松に忠実な立場だと思はれる。
どんさいさんは感覚器官の存在を認識のための絶対的条件と見做してゐるやうだが、それは飽くまで「ここまでが生身の感覚器官であり、ここからは外物である」といふ線引き後にのみ言ひ得ることであらう。だが、線引きするのは私たちであって、最初から自然の中に線があるわけではないと思ふ。受動的認識においても物理的生理的に連続した過程が見られ、それらをどう区切るかには恣意的な側面がある。
このやうに考へて来ると、私は廣松に賛成である。全く残念無念だが、どんさいさんの立場に比べれば弁証法的だとさへ感じる。「第一次的-第二次的」といふのは相対的区別であり、物理的生理的媒介過程において、或る段階はモノに対しては第二次的だが、認識に対しては第一次的であるといふやうなものだと思ふ。諸々の観測装置は私たちの感覚器官の延長だが、これらは観測対象に対しては第二次的だが、観測主体に対してはそれらの示すものは第一次的である。感覚器官とその延長及び対象とのつながりは段階的過程があるにしても、絶対的・純客観的・自然的な切れ目があるわけではない。ここから、「第一次的-第二次的」といふ区別の系列化が考へられる。即ち、「……-第一次的-第二次的-第三次的-……」と前後に系列化する。「親-子」が「……-親-子-孫-……」と家系化するやうなものである。なほ、この系列の両端がそれぞれどうなってゐるかは興味深いが、今回の議題ではなかった。
来月も引続き色の話、加へて音の話も議題に入れようとのことに相成った。数物系のエンジニアduality氏が色について自然科学の立場から発表し、それに対して、近代科学的でない色の捉へ方として、私が「ゲーテの色彩論」を発表する。よりにもよってなぜゲーテなのかッて司会の崎山氏が思ひ付きでテキトーに決めてくるのだから仕様がない。ゲーテの色彩論なんて、私にはオカルトとの関連、それこそシュタイナーぐらゐしか思ひ浮かばないのだが。ネットで検索すると色彩心理学なる分野で取上げられてゐるらしいから、そこらへんで調べてみようか。
第十回(2005/12/17)
遅まきながら第十回哲學道場について書きます。場所は高円寺駅前の喫茶店で先週土曜日(12/17)に午後一時から約三時間開催されました。参加者は計七名(飛び入り参加・途中参加OKなので)。議論が入組んでゐるので、毎度のことながら独断と偏見がかなり入った記述になります。
少々世間話をして、僕が「ゲーテの色彩論」について解説書を引写したレジュメを元に発表。それから数物系のエンジニアのdualityさんに色の定量化について更に詳しく解説して頂きました。
しかし、さうした話からはいきなりぶっ飛んで、前回の「色と長さとは異なる種類の性質なのか」といふ議論に突っ込んでいくことになります(まあぶっ飛ぶのは議論の行きがかり上必然なのですが)。
素朴実在論を採るどんさいさんは、例へば肉眼で見るとき、単色光の刺激であらうと、テレビのやうにRGB三原色の合成であらう同じく主観的には紫と感じるのに対し、長さ=隔たりの場合はモノ同士の関係として絶対的に決まってをり、客観的であると主張します。しかし、崎山氏に言はせれば、それは人間の視覚が荒いからで、長さについても「6.00001cm」と「6cm」とを区別できないといふことがあり、物理的に異なる波長のあり方が主観的には同一色に見えるのもこれと同じ論理構成だと主張します。どんさいさんは光の物理的なあり方が色覚を媒介するといふ関係を捉へて両者の相対的独立を主張し、一方で長さについてはさうした媒介関係がなく、直接的(物質的)なあり方として理解してゐるのだなと僕は受取りました。一方で崎山氏は媒介関係を無視し、担ひ手のあり方(この場合人間の視覚といふ担ひ手がザルだといふこと)の問題ですべてを片付けようとしてゐたやうです。
崎山氏の立場は廣松渉の「共同主観性」の概念に拠りながら、さらにラディカルに推し進めたもので、まづ証明されてゐないこと、認識の埒外にあることについては全く懐疑的な立場を採ります。従って「人類よりも前に存在した宇宙」などについてはひとつのパラダイムに過ぎず、共有された前提(共同主観性)といふ以上の権利を与へません。今日の自然科学が広く共有されてゐることは認めますが、その根拠として「認識外部にまで拡がる自然とよく一致してゐるから」などといふ一致説を採らないわけです。極端に言へば、真理は究極的に歴史的な多数決で決まるとする立場であり、「共同主観性」からはみ出るやうな「発見」を否定します。
dualityさんの立場は(私のやうな哲学ファンからすると)独特です。まづ「主観」を座標と定義し、「客観」を座標軸が示す値と考へます。座標(恐らくものさしみたいなものだらうと僕は思ひます)を設定することで、初めて値がアウトプットして来るので、座標設定以前の世界については何も言及できないとする立場です。座標に拠って定義された判断のみを行ひ、判断(「である」)以前の存在(「がある」)について言及すべきでない(するとすれば定義が必要である)としてゐるので、どちらかといふと崎山氏に近い立場かなと思ひます。
私の立場ですが、相変はらず客観主義的な主張(どんさい氏)と主観主義的な主張(崎山氏、duality氏)との間で右往左往するといふ立ち回りです。三浦つとむを読んで来た身からすると、どんさいさんの立場を補強したいが、崎山氏やdualityさんの採る懐疑的な立場の方が慎重でうなづける気もするといったところでせうか(でも突詰めるとマッハ主義ッぽい気もします)。割と悶々としてゐたのですが、帰りの車中で崎山氏に「コーディネータらしい」との評を頂きました。確かに調子に乗って議論してゐる方にその都度逆の立場からツッコミを入れてゐるので、そのやうな役割もありかなぁと思ひました(レギュラーのメンバが初参加の人にほとんど解説なしで議論を初めていくので私のやうなどっちつかずの役回りも必要なのかもしれません)。
今回も議論が非常にこんがらがってゐてとても綺麗にまとめ切れるものではありませんが、最後にどんさいさんが「私にとって私が存在するといふ絶対的な私と私自身との関係」を根拠にして「長さ」の絶対性、或いは認識に対する外界の存在の絶対性を話に出したので、自我と非我(自我でないもの)との関係に話がもつれこみました。また、どんさいさんは、自我、或いは自己意識を論ずる際に問題になる「無限後退」の問題についても、「私はAについて考へる」と私は考へる」と私は考へる」と私は……」と……」……といふ一定の後退の後にはその意識といふ形式のみが残って内容は空虚になるといふ見解に変更されたやうです(これについても色々と疑義はありますが、我々の議論が他者の見解に影響を与へたといふことで嬉しく思ひます)。
色と長さの議論から自我の議論にもつれ込んで、次回は自我論・自己意識論をやることになりました。次回のレジュメは、私と崎山氏とがそれぞれ永井均の新書をまとめて来る手筈です。
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