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2006年7月 5日 (水曜日)

第17回哲学道場高円寺「世間」

東京・高円寺で哲学の討論会を開催してゐます。今回(7月1日)の参加者は、riceさん、ackeyさん、アムロさん、a-rainさん、おのざわさ ん、dualityさん、崎山(S代表)さん、どんさいさん、深草の9名でした。ちなみに全員大学(出身/在籍)が違ふさうです。

今回のテーマは「世間」で、まづおのざわさんがレジュメを切り、次いで私がレジュメを切りました。まづ各自の「世間」観が問題となり、次にその「世間」と「社会」との関係が問題になりました。しかし、テーマがテーマだけに各自の思ひ描いてゐるモノが見事に噛み合ひません(^^;)。

おのざわさんは阿部謹也氏の論を引いて、世間は前近代的なもの・否定さるべきもので、社会に成るべきだと主張します。

崎山(S代表)さんは技術革新によって、不可逆的に交通が発達し、「世間」が次第に小さくなると考へてゐるやうです。そして「世間」の規模が最も小さくなったとき――即ち世間の範囲が個人にまで狭まったときに「社会」が現れることになります。また、「世間」は当事者が認定するものだが、「社会」は第三者からも認定できるものであると述べました。

私は「世間」がもたらす閉塞性は狭い世間から広い世間に視野を拡げることで解消できると言ってみましたが、そもそもこの主張には「世間」と「社会」との区別が含まれてゐませんでした。

エンジニアのdualityさんは「世間」は一種の価値意識であり、「社会」は或る客観的な状態であると解釈します。日本のやうな「農耕民族的」な社会では助け合って働かなければならないから、人と人とのヨコの関係が発達したのに対し、ヨーロッパのやうな「騎馬民族的」な社会は(例外はあるにせよ)親密な共同体を形成せずに成立してゐるから、そのやうな関係が発達しなかったのだと言ひます。

riceさんは国家と社会との不可分を説いて社会契約説を持ち出しますが、「社会契約」のやうなフィクションはどうもウケが悪いやうでした。

アムロさんは「世間」を個人を内側から規制する何か――道徳や信念とは異なる何かであると感じてゐたやうです。まあ「世間」を哲学的に問題にするのであれば、このやうな内的規制としての「世間」を問題にするべきだと私も思ひましたが、今回は制度としての「世間」、他人から実際に注がれる視線としての「世間」が皆さんの関心の的であったやうに思はれました。

どんさいさんは社会に対する各自の見方――社会観が「世間」であると言ひます。

熱心に見学してゐたackeyさんは、実際自分ではあまり「世間」といふ言葉を使はないさうです。家族が親戚について話してゐるのを聞いて「これが世間といふものか」と思ふ程度だとか。言はれてみると、自分もあまり世間を気にしたことがないやうな……と言っても学生だからかもしれませんが。

言葉の内容が各々異なることから、a-rainさんは「~としての世間」を問題にするべきではないかと述べました。実際、「世間」の定義が人それぞれですし、定義の優劣も決め難い状況だったと言へます。

――人数も多く、またテーマが先行研究の少ない見通しの立てにくいものだけにこの程度の報告しかできませんでした(理解力・記憶力の限界もあります)。「私はこんなことも言った」とか「あの人はこんなことも言ってましたよ」と追加で報告して下さると嬉しいです。

なほ、次回の哲学道場高円寺のテーマは「生命」です。8月5日(土)13:00に高円寺駅集合ですので、御問合せや参加・見学を希望される方はkusyaku_nikenあっとまーくyahoo.co.jpまでお願ひ致します。

追伸.人数が増えて来たので、どんさいさんが高円寺駅北口徒歩6分の場所に新しい会場を押さへてくれました。感謝(^^)。

【約1500字】

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