第4回京都哲学道場
まづ私が古代の存在論(レジュメ参照)について簡単に発表して、「存在」とはどういふものであるかを問ひました。そして、次の三つの立場が提出されました(といっても各立場は必ずしも並列すべきものではありませんし、認識論上の立場と混ざってゐます)。
第一に、素朴に「存在」があるとする立場(深草)。あらゆる物事について「在る」といふ述語がつけられるからには存在といふカテゴリが成り立つとする立場です。また、認識から独立した存在が可能であると信じます。
第二に、「存在」には幾つもの種類があるとする立場(崎山さん)。「存在」などといふカテゴリは言葉だけあって実際には成立せず、実際には何種類かのものを混同して出来上がってゐるに過ぎないとする立場です。例へば、感覚で捉へられるもの(「実在」)・想像上のもの(「虚在」)・感覚で捉へられるやうになる可能性があるもの(「可在」)といった具合に分類します。また、崎山さんは「役に立つものが真理である」とする真理の実用説を採りますので、これらの区別は使ふ人にとって便利なやうに改変すればよいと言ひます。従って「一元論が真理足り得るのは、世の中に極僅かだが存在する哲学好きな連中にとってに過ぎない」と主張します。「存在」は混同された概念に過ぎず、実際には多元的なものでしかないといふ主張にcoelacanthさんは明晰さを感じてをられたやうでした。
第三に、「私」が認めるものだけが存在であり、「私」の範囲の外には何も存在しないといふ立場(itikunさん)。私にとって存在するかどうかが究極的に問題なのであって、それ以外には関心を持たないといふ独我論です。ホビーさんはこの立場に共感するやうです(独我論者の間に「共感」があるなんて私には信じ難いことですが……)。
私の立場から言へば、崎山さんの立場もitikunさんの立場も似たやうなものです。といふのは、いづれも認識する側から「存在」を切離せないと主張するので、認識主体が存在しない宇宙においては何も存在しなかったことになってしまふからです(そもそも彼らにとっては「認識主体が存在しない宇宙」といふ言葉の意味すら分からないでせう)。また、会が終了してから考へたことですが、今回の議論に欠けてゐたものの一つは、椅子や机などの個別に存在するものと、存在といふ抽象概念とを区別し、きちんと関係づけることだったやうに思ひます。
次に、崎山さんが時間論(二番目のレジュメ、特に「補足1」参照)を発表しました。「時間」といふ言葉の意味は、私的時間・社会的時間・計測的時間・超越的時間の四つに分けられて、統一的な時間概念なるものは存在しないといふ主張です。
この四つは大きく二つに分けられます。まづ、私によって感じられる時間・社会によって設定された時間・物質のあり方を頼りに設定された時間、の前三者はいづれも可変的で、総じて人間にとっての「時間」です。一方で、私が今回採った立場からすれば、それらとは独立して物理的時間があるはずで、さういった時間は前三者を超えて普遍的・絶対的・固定的である点で「超越的時間」と呼ばれます。崎山さんからすれば、「超越的時間」などといふものは存在しないか、もしくは哲学ファンの間にだけ存在する(さうだらうか、むしろこれこそが常識的な時間観ではないか――とツカダさんに指摘されてゐましたが)ものに過ぎず、実際には私たちが設定した時間しか存在しないのだといふことになります(私たちが何かを測った時間でもなければ、何かから抽象した時間でもありません!)。
私の立場からは当然物質的な基準に従って測られる時間、主観から独立した時間があると主張します。ホビーさんが言ふやうに、チキンラーメンが美味しくできる時間は三分ピッタリでなければならず、それはチキンラーメンの物質的性質に依存してゐます。しかし、崎山さんからすれば、「チキンラーメンが美味しくできる時間」も人によってまちまちであり、客観的な三分など存在しないといふことになりませう。つまり、「きっかり三分経ったから美味しい」のではなく、「美味しくできた時間が結果的に三分と呼ばれてゐる」に過ぎないといふことなのです。
Kさんが手拍子を打って「これはどういふ時間に当たるのか」と質問しました。Kさんの手拍子は等間隔に打たれてゐるやうに聞こえて来ます。しかし、崎山さんに言はせれば、この等拍のリズム(「Kリズム」)もリズム感の鋭い人からすれば等拍ではないかもしれず、特定の人々によって単位時間として認定されるに留まると言ひます。Kさんの手拍子で測られる時間がたとへ体調によって朝夕で伸び縮みしようとも、このKリズム時間で測られたチキンラーメンを食べる人の好みがそれに合はせて朝夕で変化してゐるのではあれば、「チキンラーメンを作るのに役立つ(=正しい)Kリズム」として認定されるわけです。
以上、深草によるレポートでした。ただ、当然このレポートは私の記憶力・理解力・表現力・立場によって制限されてゐますし、重要な論点を見落としてゐるかもしれません。参加者の方からの補遺や感想、「後で考へてみたのだが、実はかういふことでは?」「かうも考へられるのではないか?」といふ意見を期待します(ここにコメントして下さっても、mixiのコミュニティでコメントして下さってもかまひません)。また、哲学道場では崎山さんを論破できる猛者を募集してゐます。
なほ、次回の「京都哲学道場」は8月27日(日)、東京開催となる「哲学道場高円寺」は8月5日(土)です。御問合せや参加申込などはkusyaku_nikenあっとまーくyahoo.co.jpまで、御気軽にどうぞ。
【約2400字】
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コメント
テスト勉強などにかまけずに参加しとけばよかった。
物理屋としてとても惹かれるテーマです。
次回は多分参加させていただきます。
ところで僕は崎山さんによる存在の分類の箇所には違和感を覚えます。
想像上のもの(「虚在」)・感覚で捉へられるやうになる可能性があるもの(「可在」)は、感覚で捉へられるもの(「実在」)に含まれると思います。
なぜなら実在抜きに虚在が存在することは想像できないからです。
例えば僕が今何かを想像したとします。その時僕の脳にはなんらかの変化が起こっているはずです。
投稿: だいすけ | 2006年7月18日 (火曜日) 11時46分
私は記録を残す癖がないので、こういう形で記録化されるとありがたいですね。
だいすけさんの御質問は、当日論じられた中に答えはあったかと。「ヒュピシロサウルス」という架空の巨大生物を、脳内では実在だなのだ、を、ある特殊な個人が主張するのは、当然認めます。 これは、シンプルに<定義選択の問題>。
いつか会って議論しましょう。
投稿: 崎山ワタル | 2006年7月18日 (火曜日) 14時19分
itikunさんによるレポートがアップされたので、リンクさせて頂きます。
第4廻京都哲学道場の私的レポート
http://www.geocities.jp/itikun01/hibi/zat14.html
投稿: 深草周 | 2006年7月19日 (水曜日) 23時14分
崎山さん:
>「ヒュピシロサウルス」という架空の巨大生物を、脳内では実在だなのだ、を、ある特殊な個人が主張するのは、当然認めます。 これは、シンプルに<定義選択の問題>
だいすけさんがおっしゃっているのはそういうことではないと思います。何かを想像した時,脳内ではなんらかの変化が起こっているはずである。つまり,想像したことは<脳内の変化として>実在しているだろう,ということです。私はこのように解釈します。
投稿: うみねこ | 2006年7月21日 (金曜日) 17時32分
これはうみねこさん、お久しぶりです。
脳内変化をもって一切実在と定義する、いいじゃないでしょうか。私の主張と特に抵触しません。ただし、脳内変化のみで一元的に存在を語ろうとおっしゃるのであれば、別に議論をする必要があります。
それは、異常視覚者の幻覚と通常視覚者が認知した目の前のコップは同等に扱う(似ている点を重視する)方が良いか、それとも別個に扱う(上記の逆の作業)方がよいか、という問題です。後日、議論しましょう。
投稿: 崎山ワタル | 2006年7月22日 (土曜日) 02時16分
レポート拝見しました。「ある」(einai)という言葉の多義性を最初に指摘したのはアリストテレスですね(『カテゴリー論』)。アリストテレスによれば、ギリシャ語のeinaiは「実体」(=存在?)だけでなく「性質」や「量」、「関係」、「可能性」など10のカテゴリーを持っています。アリストテレス以前の哲学者はこういった認識をはっきりと持ってはいませんから、パルメニデスが「あるはある」「あらぬはあらぬ」と言っている場合には、その「ある」「あらぬ」が必ずしも「存在」「非存在」を意味しているとは限らないことに注意しておかねばなりません。
ところで、崎山さんの説明はアリストテレスに似ているようで似ていない気がしますね。いや、よく意味が理解できないのでなんともいえないのですが。。
投稿: ミネルバの袋鰻 | 2006年7月28日 (金曜日) 17時27分