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2006年8月 8日 (火曜日)

第18回哲学道場高円寺「生命」

東京・高円寺にて哲学の討論会を毎月開催してゐます。今回(8月5日)の参加者は、加藤貴大さん、aryuさん、riceさん、崎山ワタルさん、アムロさん、どんさいさん、dualityさん、深草の8名でした。

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今回のテーマは「生命」で、発表はriceさんとアムロさんがして下さいました(画像は今回の会場を映したもの。これまで会場だった喫茶店より静かで広くて(・∀・)イイ!)。

スピノザの「生命」

riceさんはスピノザ哲学の観点から「生命」について話してくれました。レジュメの内容は、デカルト以来の心身問題の解決→物体同士・精神同士の関係→感情の一種としての「生命」→スピノザとパーソン論との対照、といった順番でした。詳しくはレジュメを参照してもらひたいと思ひますが、スピノザの言ふ変状(affectio)の一種として感情があり、感情の一種として欲望≒生命(努力)があるといふつながりのやうです。

それぞれの個物は、個物として存在し続けよう、持続し続けようと、努力する。この努力こそスピノザは生命だといったのである。またこの努力が精神のみに関わるとき意志と呼ばれ、精神と身体療法に関係するとき衝動と呼ばれる。そしてこの衝動が精神によって、意識されるときに欲望と呼ばれる。この衝動が意識されて欲望になるとき、目的がそこに付随してくる【riceレジュメより】。

この観点からすると、万物には自己保存の努力(conatus)が働いてゐるといふことになります。そしてこれを「生命」と呼ぶならば、石ころやコップや死骸にも「生命」が働いてゐるといふことになります。

まあこれはこれで面白いテーマではあるのですが、私は字面からうっかり常識的な意味での「生命」について議論すると思ひ込んでゐたので、話をどう常識的な意味での生命につなげられるのかに気を取られてriceさんと崎山さんとがスピノザについて議論してゐるのをよく聴くことができませんでした(riceさんは最初からスピノザにおける「生命」を論じると予告してゐたので、これは私の見落としでもあります)。

理性知と直観知

riceさんによれば、スピノザは認識に次の三種類を区別したさうです。即ち、表象・理性知・直観知の三種類です。

何らかの物体とぶつかったことによって、得ることのできる知覚を、その非十全な認識のことをスピノザは表象(第一の認識)と呼ぶ。/それに対して、十全な認識を得られるものを理性(第二の認識)、直観知(第三の認識)呼ぶ。スピノザの言う理性とは、共通観念、ある種の普遍性のことである。ある物体と、他のある物体この二つにある普遍性。たとえば私の口と、パンとの間にある何らかの共通性、私のお尻と椅子の間にある共通性。最大限広い共通観念として、おなじ延長で表されている物体すべて。これらにはなんらかの共通性がある。この共通性は十全な認識である。しかし2つの物体の共通性は認識できるが、その物体の本質は認識できない。直観知は、神と、個物と、私達の精神が、神において一致しているということを一挙に洞察に把握することらしい。それには理性とより大きな活動力が必要らしい。直観知に至って、初めて、個々の物の本質が認識できる【riceレジュメより】。

まづ、この理性知と直観知との関係について、崎山さんが発言してゐました。曰く、「例へば、私を初めとして世界のほとんどの人々は直観知を得てをり、僅かに残る無知な人々のみが直観知を求めてスピノザを研究してゐると主張することができるだらう。ではこの主張に対して、スピノザ研究者の人たちは反論できるのだらうか」。それに対してriceさん曰く、「直観知とは世界全体に対してなされてゐるものではなく、まづ個々の物について言はれる知である。また、対象Xについて直観知を得てゐる人々は、もしそれが正しい知であるならば、その知を得てゐない人々とも対立することはあり得ない。従って、崎山さんが仮設した主張に対して反論する必要はない」。――このあたりの論点は私の記憶では不明瞭なままなので、できれば補足をお願ひしたいところです。

また、上の引用部分では、共通性(共通観念)も常識的な用法から外れてゐるといふことで取上げられました。共通性と聞くと、私などは「人間は動物である」「鳥は動物である」「人間と鳥とは『動物』といふ点で共通してゐる」といったことだと了解するのですが、ここでriceさんが述べてゐる「共通性」とは「口‐パン」「お尻‐椅子」といった例からも見て取れるやうに能動‐受動関係を結べることを以て「共通性がある」と見做してゐるやうです。

脳死問題など

アムロさんによる発表は、人間の誕生と死とを法律がどう捉へてゐるかを元に考察してみようといふものでした。

胎児は法的にもヒトに準ずるものとして扱われ、生存する権利を認められている。しかし着床前の受精卵についてはその限りではない。受精卵は環境が整えば分裂を繰り返し、やがてヒトと成る存在である。しかし、そのヒトの原型は他の命のために利用されたり、不完全であった場合遺棄されたりすることがある。このことについて、我々はどのような規制を設けるべきだろうか【アムロレジュメより】。

これに対し、法律屋の崎山さんは「法律は何か現実に問題が起こって初めて制定されるもので、法律が現にかうあるといふところから議論を起こすのは珍しいやり方だと思ふ。大抵の場合は、何かしら倫理的な原理を立ててそこから法律の是非を論ずるといふスタイルなのではないか」と述べました。一方、アムロさんの意図としては、現行の法律が人々の意識を或る程度反映してゐるといふ前提で法律が生と死とをどのやうに見做してゐるかを取上げたかったやうです。

その後、脳死問題を中心に話は進みました。アムロさんは「自己の死」や「自分の遺体からの臓器移植の可否」については本人が決定するのが最も好ましいと考へてゐるやうでしたが、どんさいさんが言ふやうに、まさに死にかかってゐるその当人の意志は必ずしも明らかではありません。過去の或る時点で臓器移植OKのサインをしてゐたとしても、いざ移植のときになって気が変はってゐる可能性は拭へないわけです(そんな話を聴く一方で、私はそもそも過去の自分が現在の自分をどうして規制できるのかといふことに想を巡らしてをりました。一生涯のうちでどの時点の自分の意志が決定的と見做されるのでせうか)。

パーソン論

パーソン論の主張は私も大学で何回か耳にしたことがあり、人格の有無、或いは多寡を一定の基準によって線引きし得るといふ主張だと理解してゐます。

1 人間の本質は、自己意識、利害関心、理性などをつかさどる大脳の働きにある。

2 中枢神経の働きの程度によって、人間を一元的に序列化することができる。すなわち階段のような、存在論的な位階秩序が構成される。そして人間をどの地点から<人>とみなすことができるかの客観的な線引きが可能になる。最上位の位階である、健康で正常で理性的な成人が<人>の理想型でそこから下降するに連れて人間は徐々に<人>から遠ざかっていく。

3 位階が下降するにつれて、論理的配慮受ける権利や意見表明の権利、生存権が縮小される。位階の低い人間への差別的な取り扱いは正当化される(生命学に何ができるか?森岡正博)【riceレジュメより】

パーソン論者は、脳死患者や強度の痴呆症の老人等は、生存権が縮小されても考えるし、また胎児はまだ<人>ではないから中絶も許されると考える【同上】。

人格は何らかの基準で階層化できると主張するパーソン論に対し、どんさいさんは「理性」や「人格」はそもそも量化できないと反対します。

今の若者は「理性」的であることを比較し、線形に並べることができると思っているらしい。成績やIQで選別してきた学校制度のせいかな。何らかの測定法で統計量は算出できても、定義できない量を比較することはどだいできないはずなのに【「世界観組立の経過報告」より】。

こんな発言をされると、またもや「『定義できない』といふのは独断に過ぎない」といふ声が聞こえて来さうです。しかしまあ、実際私は量化できないと思ってゐますし、また私が今まで耳にした「パーソン論」も批判対象として取り扱はれてゐるのみで、パーソン論バンザイな人には会ったことがありません。――と思ってゐたら、なんとdualityさんはパーソン論に賛成ださうです。ちなみに私やriceさんは二十代、崎山さんは三十代、dualityさんは四十代なんですが……五十代のどんさいさんから見ると全部まとめて「若者」なんでせうか。或る意味一緒にしないで欲しいです(^^;)。

理性が話題に昇ったので、次回のテーマは「理性」です。今回の話の延長になるやうに、理性の有無はどうやって判定できるのかといった実践的なトピックで私がレジュメを切ることになってゐます。日取りは来月第一土曜日、即ち9月2日(土)になります。御問合せや参加申込などはkusyaku_nikenあっとまーくyahoo.co.jpまでお願ひ致します。

連絡:今回から会場として「高円寺北区民集会所」を利用してゐます。もちろん有料なので、初参加者を除く参加者全員から200円をカンパして頂くことになりました(とは言へ、今まで利用してゐた喫茶店でのコーヒー代に比べれば安いものですが)。なほ、剰余金は参加者が少なかったときのために利用されることになるかと思ひます。

【約3900字】

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