レジュメ@第18回哲高「生命」
第18回哲学道場高円寺で使用されたレジュメ二稿を挙げておきます。
まづriceさんのレジュメから。
8/5 第18回哲学道場高円寺 テーマ『生命』
辞書の話
生命って何を指すのだろうか?とりあえず辞書による一般的な定義を見てみよう。
[生命] 生物を、無生物ではなく生物として存在させる本源。 (yahoo辞書 大辞林第二版)
生命とは、生物が生物として自己を維持・増殖・外界と隔離する活動の総称であるが、はっきりとした定義を与える事は難しい。またある意味では、自己複製を繰り返し、かつ変化しうる存在で有るとも考えられる。(wikipedia)
正直かなりあいまいな言葉みたいだ。英語訳もLIFEともSOULとも取れる。「生命」って日本語の歴史をたどっていけば少しは、定義っぽいことはできるかもしれないけど、それだけで卒論かけそうだから、「生物の本質にかかわるっている何かである」ってことにして先にいこう。
とりあえず人間は生命をもっている、もしくは生命が働いている。そして人間は生物である。なので生命は、人間の本質に関わっているなにかである、っていうのはたぶん間違いないだろう。
デカルトの話
人間の本質については多くの哲学者が考えてきたわけだ。デカルトもその一人だ。
デカルトは、人間は物体(身体)と心の2つの実体※からなっていると考える(心身二元論)。心はいわゆる人間の意識で、自由に思考できる。思考は心の属性である。「わたし」の本質はと聞かれたらそれはこの思考である。
一方、物体の属性※※は延長である(空間的広がり、個体、液体のように変化しても一定である物質の属性)。デカルトは物体を物理法則によって規定され、また活動する、一種の機械であると考える。心は往々にして身体を操縦していて、能動的で、時には身体の機械的な運動に依存して、眠くなったり、痛いと思ったり、受動的になったりする。なんとも実感的にぴったりくる考え方だ。
しかしデカルトはここで哲学史上に名高い問題を引き起こしてしまう。心身合一問題である。心と身体は別々の実体なのにどうやって互いに影響しあっているのだろうか。デカルトは脳の奥の松果腺と呼ばれる器官において心と身体は結びついているんだと考えたわけだが・・・。もちろん松果腺のような器官は、現在まで発見されていない。現在ではこの問題は心脳問題と呼ばれ、いまでも大問題なわけである。
生命の話に戻そう。デカルトにおいて人間の本質は、心の持つ思考と、身体の機械的な運動なわけである。さて生命はどちらを指すのか、その両方を指すのか、はたまたそれ以外の何かの本質なのか。
生命は思考である、または思考と身体の両方であるというのは、結構あぶない。生命って言葉は、人間以外にも、花やバクテリアにまでに及ぶのである。花やバクテリアが意識を持っているというのはどうなのか?
じゃあ生命は物体の運動であるって言うのはどうか。身体の運動が不可逆に停止すれば、確かにその身体は死んだと言われるだろう。しかし現実的に私達が自分の死について考える時、死は物体的な運動の停止ではなく、思考の停止を思い浮かべるだろう。実際の経験的に考える、生命や死とうまく重ならないわけだ。
スピノザの話
スピノザも大勢の哲学者と同じように、デカルトの心身合一問題に挑んだ哲学者の一人である。ただし非常に彼独特の哲学を論じて、心身合一問題を解決させている。そして彼独自の「生命」も彼の哲学から導き出されるのである。彼の主著であるエチカの1部から3部あたりまでをさっと説明してみよう。
神の話
この世界には神以外に何も存在しない。どこの怪しい宗教だって思うかもしれないがそうではない。スピノザの神はイエスではないし、ヤハウェでもない。この自然から、思考からなにから全てのものの本質的な原因を神と名づけたのである。神は唯一の実体である。神以外に何ものも存在しない。それゆえ神は無限である。神とは絶えずこの世界を構成している「力」のようなものである。
この地球だって、「わたし」という意識だって、目の前にあるコーヒーだって皆、神の内に存在するというのである。デカルトは、心と身体が実体だって言ったわけだけど、スピノザは神が唯一の実体で、心も身体も実体である神の2つの異なる属性※※にすぎないって言うわけだ。じゃあ人間はいったい何になるのだろう?このコーヒーは実体を持っていないってどういうことだ?
スピノザは言う。一切の個物(身体も個物だ)は神の属性の変状あるいは属性を一定の仕方で表現する様態であると。(汎神論)
この神は自らの本性の必然性からのみ行動し、知性も、意志も持っていない。人格神でないのだ。神の本性には一切の目的論は与さない。(キリスト教神学者から散々バッシングを受けた点のひとつだ。)
現実世界のありとあらゆるものは、神の必然性から表れる。ということは現実のすべては必然的にこのようであり、べつな風ではありえない。自由な意志は存在しないのである。(徹底的な決定論)
心身並行論の話
人間は神の諸様態らしい。そういった前提の下で、人間を捉えなおしてみるとしよう。
思考と延長はどっちも神の属性である。(神は無限なので、思考と延長以外にもたくさんの属性をもっているけれど、人間は思考と延長しか認識できないのである)。
思考と延長はそのどちらか一方を自身の存在の原因とはせず、お互いに影響をなさない。スピノザのデカルトとの決定的な違いがここにある。意識は体に働きかけないし、体は意識に働きかけないのである。心身合一問題なんて起きないのである。
物体は物体によって生じ物体にのみ働きかける。思考は思考によってのみ生じ、思考にのみ働きかけるのである。そんなこと言ったって、心と身体は影響しあっているではないか?スピノザはそうではないという。
物体も思考も神の一部分であって、その一部分が、物体と思考という二つの表れ方で表されている。ある「物体A」と「物体Aの思考」は同じ神の一部分が2種類の表れ方をしているというわけなのである。どちらもある実体の一部分なのでその両者が互いに対応しあうのは当たり前である。(心身並行論)
また「物体A」があるという時、その物体Aを存在させ、作用させる無数の物理的な連鎖が存在する。人間身体は、無数の細胞と、無数の空気の原子、万有引力といった、無数の物理的連鎖によって成り立っている。その物体と並行して思考も存在するので実際はこんなふうになる。
A「原因→結果」―――――――――Aの思考「原因→結果」
∥ ∥
B「原因→結果」――――――――――Bの思考「原因→結果」
∥ ∥
C「原因→結果」――――――――――Cの思考「原因→結果」(無限に続く)
個体と最単純物体
個体とは、いくつかの物体が互いに合一し共同しあっている状態のことをいう。それゆえ、ある個体とある個体が合一し共同しあっているより上位の個体がある。そのある個体とその上位の個体は互いにその本性を失うことなく同時に存在することができる。(人間という個体同士の共同し合っている状態である、社会、あるいは国家といったものも個体として存在する。)
ある個体の上位の個体、その上位の個体、その上位の・・・と無限に進めば、全自然がひとつの個体となる。逆にその下位の個体へと分割しながら進んでいけば、運動と静止によってのみ相互に区別される最単純物体が存在する。(スピノザは原子という言葉を使わなかったが、原子あるいは陽子、電子等の素粒子のことを指すと考えられる)
人間精神と知覚の話
人間の精神とは身体の思考であるとスピノザは言う。物体Aと物体Aの思考が並行して存在するように、人間の身体と人間の精神も並行して存在する。
人間身体A――――――人間身体Aの思考=人間Aの精神
さて人間精神は何をしているのだろうか?人間精神は「身体の変状の思考」を理解しているのである。AとBが原因と結果の連鎖を起こしている時、思考Aは、思考Bを結論すると同時に思考Bを理解する。
A「原因→結果」―――――――――Aの思考「原因→結果」 (この時Aの思考はBの思考を
↓ ↓ 理解しまた結論している)
B「原因→結果」――――――――――Bの思考「原因→結果」
身体Aが物体Bとぶつかった時、身体は何らかの変状aを起こす。その時精神は「身体変状aの思考」を理解し結論していることになる。視覚、聴覚などの五感はすべてこれである。(知覚)
この時精神は、「身体の変状aの思考」を部分的にしか認識できない。なぜなら物体Bの思考の部分が情報として欠けているからである。このような部分的な認識をスピノザは非十全な認識と呼んだ。
ところで物体Bの思考といったが、これは物体Bの思考のそいつなりの身体知覚である、言い換えれば精神である。スピノザの哲学の中では、それぞれの物体に精神があるわけである。私にも、花にも、バクテリアにも、社会や国家にも、ひとつの原子にも、である。(万物霊魂論)
理性の話
スピノザは合理論者の一人である。つまり、知覚や表象よりも理性の優位を唱えているのである。
先ほどあげた、何らかの物体とぶつかったことによって、得ることのできる知覚を、その非十全な認識のことをスピノザは表象(第一の認識)と呼ぶ。
それに対して、十全な認識を得られるものを理性(第二の認識)、直観知(第三の認識)呼ぶ。スピノザの言う理性とは、共通観念、ある種の普遍性のことである。ある物体と、他のある物体この二つにある普遍性。たとえば私の口と、パンとの間にある何らかの共通性、私のお尻と椅子の間にある共通性。最大限広い共通観念として、おなじ延長で表されている物体すべて。これらにはなんらかの共通性がある。この共通性は十全な認識である。しかし2つの物体の共通性は認識できるが、その物体の本質は認識できない。直観知は、神と、個物と、私達の精神が、神において一致しているということを一挙に洞察に把握することらしい。それには理性とより大きな活動力が必要らしい。直観知に至って、初めて、個々の物の本質が認識できる。直観知はスピノザ哲学の頂点(終着点)なのだが、このへんはきっとエチカの一番難解なところだろう。
感情の話
さて、こむずかしい認識の話を強引にしてきたのには理由がある。このレジュメのテーマはなんだったか?「生命」についてである。そろそろスピノザの生命が出てくるわけだ。
スピノザにとって感情とは、身体の活動力(力能)(正しいかは不安だが、生命力)を増大あるいは減少させる身体の変状のことである。活動力がより小さな完全性から、より大きな完全性へと移行する時人間は喜びを感じ、その逆だと悲しむ。
スピノザは感情を3つに分類した。喜びと悲しみと欲望である。この三つの基本的感情で他の全ての感情を説明できるという。たとえば愛は、外部の原因を含んだ喜び、憎しみは外部の原因を含んだ悲しみといった様にである。
残った感情、「欲望」これがスピノザの言う実質的「生命」である。さらに正確に言うとスピノザのいう「生命」とはここの個物が持つ「努力(コナトゥス)」のことである。
「おのおののものは自己の及ぶ限り、自己の有に固執するようつとめる」(エチカ第三部定理6)
それぞれの個物は、個物として存在し続けよう、持続し続けようと、努力する。この努力こそスピノザは生命だといったのである。またこの努力が精神のみに関わるとき意志と呼ばれ、精神と身体療法に関係するとき衝動と呼ばれる。そしてこの衝動が精神によって、意識されるときに欲望と呼ばれる。この衝動が意識されて欲望になるとき、目的がそこに付随してくる。
人間は自分で目的をたてて、自由に行動していると信じている。しかし実際はその逆で、「努力」または「生命」という人間の本質が、自己の有に固執するために、なんとも言い表すことのできない衝動を引き起こす。そしてその衝動が意識されると、欲望となって、「~ために」といった目的が表れるわけである。
人間は自由な意志も、感情も持ってはいないで、努力あるいは生命といった本質からなる衝動に操られているわけである。
スピノザ哲学は、神にしろ、心身にしろ、感情にしろ、皆、一般的な考え方からの捉え直しを迫るような、長大な形而上学だが、その哲学の中心ははっきりしている。スピノザはより多くの喜びを求めているのだ。言い換えれば、身体の活動力が増大するような一切のことをもとめているのだ。そしてその結果として、直観知を得ることができれば、至上の幸福が得られると彼は言うのである。
現代の生命論としてパーソン論
近年の脳死問題の中で、脳死賛成派の人間がよくあげるパーソン論という理論がある。パーソン論の主張はだいたい以下のとおりである。
1 人間の本質は、自己意識、利害関心、理性などをつかさどる大脳の働きにある。
2 中枢神経の働きの程度によって、人間を一元的に序列化することができる。すなわち階段のような、存在論的な位階秩序が構成される。そして人間をどの地点から<人>とみなすことができるかの客観的な線引きが可能になる。最上位の位階である、健康で正常で理性的な成人が<人>の理想型でそこから下降するに連れて人間は徐々に<人>から遠ざかっていく。
3 位階が下降するにつれて、論理的配慮受ける権利や意見表明の権利、生存権が縮小される。位階の低い人間への差別的な取り扱いは正当化される(生命学に何ができるか?森岡正博)
パーソン論者は、脳死患者や強度の痴呆症の老人等は、生存権が縮小されても考えるし、また胎児はまだ<人>ではないから中絶も許されると考える。
しかしこの主張2はまさに、スピノザの言う、活動力にわりと近いものを捉えているはずなのに、何故こうもスピノザと間逆の結論に至るのだろうかと思うしだいである。スピノザは活動力をより強くする、またより維持できる、一切の体制が必要であるといっていたのである。
※実体―実体とは古来{存在するもの}をあらわす枢要概念であった。アリストテレスにおいて、存在論は実体を問うものであるとされた。デカルトにとって実体は「他の何者も必要とせずそれ自体で存在するもの」であり、スピノザにとっては「それ自体においてあり、それ自体によって理解されるもの」である(岩波哲学・思想辞典参考)
※※属性―属性とは実体の本質的な性質。その性質なしにはその実体を考えることができないようなものを意味する。実体の概念と対比され、実体がそれ自体で存在できるのに対して、属性は実体の存在に依存すること、実体が文の主語、属性が文の述語に対応することが強調される。デカルトにおいて物体の属性が延長であり、心の属性が思考である。スピノザにおいては延長と思考は共に実体「神」の属性である。(岩波哲学・用語辞典)
以上がriceさんによるレジュメでした。続いてアムロさんによるレジュメです。ヨリ長い文章の冒頭であるさうです。
生命の領域(生命閾)
ⅰ.ヒトの始まり
ヒトとは哺乳鋼サル目ヒト科ヒト目に属する動物を指す。動物の場合は誕生を境に生命の始まりとすることが多いと思われるが、ヒトは妊娠期間が長い影響もあるのか、母胎に在るうちから生命として扱われる。刑法の第214条には〔医師、助産師、薬剤師又は医薬品販売業者が女子の嘱託を受け、又はその承諾を得て堕胎させたときは、3月以上5年以下の懲役に処する。よって女子を死傷させたときは、6月以上7年以下の懲役に処する。〕とある。殺人にはあたらないが、堕胎させるということは犯罪である。殺人罪よりは軽いが動物愛護法の罰則よりは重い。殺人罪の最低量刑が懲役5年であることを鑑みれば、殺人罪での処罰よりも、堕胎罪による処罰のほうが重くなる可能性もある。これらのことから日本におけるヒトの胎児は、法的にヒトに準ずる扱いを受けていると考えられる。しかし母体保護法で認められる堕胎も存在する。つまり〔妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれがあるもの。暴行若しくは脅迫によって又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの。〕がそれである。基本的に母体を危険にさらさなければ、胎児はヒトとして出生する権利を有していると考えられる。そして準ヒトとしての胎児の始まりは受精卵の着床と考えて問題ないだろう。
受精卵の着床は、妊娠の兆候に気づいて後、遡及されるものであろう。しかし、近年の医療現場に於いては、体外受精を始めとして、着床前診断、胚幹細胞の利用と受精卵を着床前に扱う事態が少しずつ増えている。
胎児は法的にもヒトに準ずるものとして扱われ、生存する権利を認められている。しかし着床前の受精卵についてはその限りではない。受精卵は環境が整えば分裂を繰り返し、やがてヒトと成る存在である。しかし、そのヒトの原型は他の命のために利用されたり、不完全であった場合遺棄されたりすることがある。このことについて、我々はどのような規制を設けるべきだろうか。
ⅱ.ヒトの終わり(法律上の定義など)
ヒトという生物の終わりとはその個体の死である。終わりを定義することはつまり死を定義することである。死とは代謝や運動などの生命活動の不可逆な継続的停止であると考えられる。
ⅲ.生命の宿るモノ-卵
ⅳ.モノとしての亡骸
Ⅴ.感覚される始まり
Ⅵ.感覚される終わり
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コメント
スピノザについての問い合わせです。
スピノザは神学・政治論で日本について書いていると聞きました。オリンピックのように出島で一神教徒を受け入れていたことについて彼は何から知ったのでしょうか。
また、スピノザに対して江戸日本はどのような影響を与えたのでしょうか。
お分かりでしたらお教えいただければ幸いです。
投稿 山石水皮 | 2008年2月23日 (土曜日) 06時56分
神学政治論の第五章(岩波文庫神学政治論第五章p187-188)において日本について一文ほど書かれています。
その情報源については分かりませんが、当時のオランダで発行されていた書籍やスピノザの書簡をチェックすれば、分かるかもしれませんね。
個人的な考えとしては、スピノザの思想と日本の思想を結び付ける必要はないのではないかと思っています。
汎神論の要素そのものは、世界中のネイティブたちの思想の中にも見て取れるはずで、日本や東アジア特有のものではないはずです。
オランダの哲学者と日本の思想において、共通点と思える点があったとしても、それは特別なことではないように思えます。
投稿 rice | 2008年2月26日 (火曜日) 02時00分
お話ありがとうございます。ヨーロッパ人を出島のように政教分離して武装解除して受け入れていたのは世界で江戸日本だけのようです。このことでオランダ人は他のヨーロッパの国から貶められていました。それでもスピノザは出島にいるオランダ人には幸福があると書いています。そういう日本は興味の対象だったと思います。そして1708年頃ベールという人がスピノザの考えが日本と同じようだ、どうして遠い日本にその考えが伝わったのか不思議だというようなことを言っています。日本などから伝わったことは明白だと思いますが、ヨーロッパ中心思想がありますから。そんなことから問い合わせをしていますので、よろしくお願いいたします。
投稿 山石水皮 | 2008年2月27日 (水曜日) 08時25分