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2006年8月29日 (火曜日)

第5回京都哲学道場

京都で開催された哲学討論会(第五回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。

  • 開催日時:8月27日(日)午後
  • 開催場所:スタディユニオン事務所(京都市左京区神楽岡町)
  • 参加者:以下の七名(敬称略)。itikunうみねこ・崎山ワタル・だいすけ・ツカダ・深草周・ぽよよん(五十音順)。
  • 発表:予定発表者itikunさんによるレジュメ配布とその内容の口頭による説明、加へてitikunさんの「独我論」についての口頭のみによる補説。飛び入り発表はなし。
  • 次回の開催予定日:9月24日(日)
  • 次回の予定発表者:深草周
  • 問合せ先:kusyaku_nikenあっとまーくyahoo.co.jp(深草)。
  • 関連リンク:

5thkyotetsu では具体的な内容について私から報告します。【注意:一般に報告は報告者の興味関心・理解力・記憶力・表現力によって制限されます。特に哲学に関する報告ではこのことが内容に対して重大な意味を持つ場合があるので、他の方の報告と読み比べてみることを推奨します】

なほ先頭に▼があるパラグラフ(段落)は報告ではなく、特に討論会終了後にそのテーマについて私が思ひついたこと、もしくは考へたことです。また、以下の記述は実際の討論の進行に沿って書いたものではありません。

発表内容

itikunさんの発表内容を簡単にまとめておきます。まづレジュメを使ったメインの発表では、主に次の二つの論点が提出されました。

  1. 哲学は宇宙に秩序があることを前提としてなされる学問である。では宇宙に秩序があるとしたとき、それは外界(対象世界)に存在するのか、それとも主観(私)の中に存在するのか。この問ひに対して主観の中に存在すると応へることができる。即ち、無秩序である宇宙を秩序あるものにしてゐるのは私たちであると考へることができる。また、認識の規則である論理に従って私たちが無秩序を秩序として構築してゐると考へれば、秩序ある宇宙が論理的なのは当然でもある。
  2. 因果律を宇宙自体に適用し、宇宙の原因(例へば創造神)を問ふことはできない。といふのも、因果律は宇宙内の秩序に適用されるべきものであり、これを宇宙自体と他の何かとの間に設定できるかどうかは保証されてゐないからである。

▼このレジュメには構成上の難点があります。それはこれら二つの論点が混ぜて書かれてゐることです。混ぜて書いてよいといふ根拠を示すか、もしくは構成上でも明示的に区別して書いた方が分かり易いでせう。

itikunさんはこれに加へて、レジュメの上記二番目の論点を使って持論である「独我論」に補説しました。itikunさんによれば、「存在する」といふ述語は経験できるモノだけを主語に採り得るのであり、経験を超えた存在である他者の意識に対しては「存在する」といふ述語を付けられる保証がないとのことです。従って私の意識のみが存在すると言ひ得る……といふのがitikunさんの「独我論」の定義ださうです。

では以下、レジュメから展開された議論を観て行きます。

論理について

itkunさんの言ふ「論理」がどんなものなのかが問題になり、崎山さんが「論理の分類」を提出しました。

▼抽象的な言葉を使ふ相手に対して、分類で対抗するのは崎山さんの常套手段です。

  • 計算=効率系
    • 数理
    • 仮説&実証
    • 弁証法
    • (+αとして詭弁)
  • 民主=多数系
  • 法=伝統系

Logicsbysakiyama 崎山さんによれば、決め方には計算によって決める・多数決によって決める・慣習によって決めるの三種類があり、計算(推論)によって決める方法の中に数理によるもの・仮説と実証によるもの・弁証法の三種類が位置づけられるとのことです(本人の言によればこの三区分は日本の著名な論理学者22人の文献を整理した結果だとか)。

崎山さんは、itikunさんの「論理」が計算=効率系の中の数理的な方法(形式論理学)を指してゐるのだらうと言ひましたが、一方でitikunさんは数理的なものに限らず、科学に適用されるものや過程に注目する方法も含めて自分は「論理」と言ってゐるのだと主張します。

さて、この分類について、深草にはひっかかるところがありました。崎山さんは数理的な方法の中に所謂形式論理学と数学とを含め、仮説検証的な方法を個別科学のものとして分けてゐます。しかし、論理学のやうに無内容で対象を限定しない学問と数学とは一緒くたにできないと深草は言ひます。といふのも、数学は独自の対象――数学的実在を研究対象とする学問であり、その意味で他の個別科学と同様、論理学とは区別すべきだからです。

世界に始まりはあるか

itikunさんのレジュメの中に宇宙の起源について「はじめからすべてが存在していた、という答えでは、どうしていけないのか」といふ文言があります。この問ひに対し、深草は次のやうに応へてゐました。「『はじめからすべてが存在していた』とは始まり(端緒)が無いといふことである。始まりが無い、即ち始まらないもの、始まってすらゐないものは持続することも終はりを持つこともあり得ない。ところが現に世界は持続してゐる。従って『始まりが無い』といふ前提は誤りである。よって宇宙は始まりを持つはずである」。

▼しかし、この論証のおかしな点は「始まりが存在しない」ことと「始まってゐない」こととを同一視してゐる点にあるやうです。これは端っこのない線はどこからも始まることがないから存在できないといふのと同様で、端のない線として円が存在可能であるやうに、始まりの無い世界も存在する可能性を持つと考へることができます。ただし、円が線としては端(限界)を持たないけれども、直径などの大きさの点では限界を持ってゐるやうに、時間的空間的には始まりの無い世界も別の意味では始まりを持つ可能性が残ってゐます。

根拠への問ひかけ

Konkyo_1 世界自体の原因を問へないといふことに関して、itikunさんは次のやうに述べました。「世界の中で起こるあらゆることについて『なぜ?』とその根拠を問ふことができる。出来事Xの根拠、Xの根拠の根拠、Xの根拠の根拠のそのまた根拠といふ風に次々と根拠を遡って行くと究極的には『世界が現にそのやうにあるから、Xが起こったのだ』と応へるしかないことになる。このとき、世界は自己原因として考へられるより他ない。といふのも、世界そのものに原因を設定できるといふ保証はないからである」。

▼尤も因果律以外の何か超経験的な関係であると世界と創造者の関係を想定することはできるでせう。仮にさうだとしてそれをいかにして知るのか――啓示によってでせうか?

真理とは役に立つもののことである――実用説

itikunさんは「真理」や「正しさ」といったことについてまだ深く考へてゐないやうでしたが、秩序を認識の外に求めるか内に求めるかといふ問題設定からして、真理の一致説(真理とは認識と外界との一致である)もしくは真理の整合説(真理とは無矛盾な認識である)を採ることになると深草から指摘されました。

一致説と整合説のどちらを採るにせよ、実用説(真理とは役に立つことだ)との関係が問題になるわけで、いつも通り、崎山さんが実用説の立場を主張します。これに対し、深草は「実用説は実用的ではない。といふのも、応用、即ち外界に対する法則の適用は外界にある対象の法則性をつかんだといふ信念の元に行なはれるはずであって、単に役に立ってゐればよいといふのではわざわざ外界にある何かを研究しようといふ意欲が湧かないからだ」と述べました。しかし、この主張は以下の二点から退けられてしまひました。

  • 実用説よりも一致説の方が実用的であると見做さうとしてゐる時点で、一段階メタレベルで実用説を採用してゐるに過ぎないこと
  • 大砲の弾道計算で目標に当てるために軌道修正するといった応用的場面を考へても、対象の法則性に合はせることと、当てるといふ実用を達成することとは区別できないこと(崎山)

▼ここで問題にすべきなのは「研究意欲」などではなく、むしろどの時点で役に立つといふ評価を下すべきかでせう。実用的かどうかなどといふ基準は事後的なものでしかなく、実用説を採用するならおよそ実用的でない(と現在見做される)研究は一掃されることになります。実用説について考へるなら、非実用的なものから実用的なものへの転化を問題にすべきでした。

また、ツカダさんからは「大砲は確かに『役に立つ』が、それは味方から見ての話であって、敵にしてみれば大砲は『役に立たない』」といふ指摘がありました。

▼三浦つとむ度の高い指摘だと思ひます(^^)。

多数決で決める

Nerupoyo 崎山さんは実用説の他に「多数決で決める」といふ言ひ方もよくします。一方で深草は「多数決といっても様々な方法がある。例へば投票権を認める基準も複数あり得るし、或る人が何票持つべきかの基準も同様である。多数決の方法はどうやって決めるのか。結局のところ、それは現に力を持ってゐる人間が自分に都合の良いやうに決めることになってしまふ」と指摘します。

深草から見れば、崎山さんの「多数決」は現にある権力に奉仕するものですし、皆が騙されてゐたとしても「騙され続ければ騙されたことにはならない。そもそも『騙されてゐた』といふのは皆がさういふ認識が多数を占めてゐるといふことでしかない」とするのですから、権謀術数主義に見えるわけです。一方で崎山さんからすれば、多数決を超えた真理を主張する哲学者(深草は哲学道場でこの立場を採ることが多い)などは自分の真理を人々に押し付けるファシストにしか見えません。

▼どっちの立場も政治的には問題あり過ぎかと……。

うみねこ量と「情報量」

itikunは無秩序から秩序が読み解ける根拠として「『情報量』は『物理量』から独立である」ことを説明します。この命題の意味は記号の物質的なあり方とそこから読み取られる意味とは独立してゐるといふことで、ごく僅かな文字からであっても膨大な情報が明らかになることがあることに立脚してゐます。

このことに関連して、うみねこさんは「情報理論では真っ白な画面も真っ黒な画面も絵が映ってゐる画面も同じ情報量と定義してゐるが、自分は絵が映ってゐる画面の方が『情報量』が多いと感じる」と主張してゐます。情報理論で定義される情報量は客観的な物理量の一種(ビット数)であり、itikunさんやうみねこさんが言ふやうな解釈が入った量ではないらしいです。

そこで、深草が以前から疑問だったことに「数学的な量は一つの見方として誰でも採用できるとされてゐるのに、他の主観が入ってゐるとされる見方は人それぞれだと思はれてゐるのはなぜか」といふ問題がありました。しかし、これは他の人たちから「数学的な見方が普遍的だと思はれてゐるのは教育の成果に過ぎない」と言はれました。

▼三浦つとむ的に行くなら、主観が入った見方であっても無原則といふことはあり得ないと見て行くべきだと考へてゐます。つまり、主観もそれ自体を客観として捉へ返せば法則性のあるもの・条件づけられるものとして捉へられるはずだと考へるわけです。この意味で、うみねこさんの「情報量」も厳密に見方を定義することによって、うみねこ量として定式化できる可能性があると思ひます。

「無」からは何も生れない

「『ここにライオンはゐない』といった相対無は考へられる。といふのもライオンは現実にはゐないが思ひ浮かべられたものとしては在るからである。しかし一方で絶対無などといふものは……」と言って崎山さんは口篭ってしまひました。絶対無、即ち、あらゆる意味で存在しないと定義されるものについては……沈黙するより他ありません。

▼言葉ではかう書くより他ありませんが、そもそもそのやうな定義からしてできません。といふのも、一体何を定義してゐるのかすら分からないからです。定義されるべきものが「無い」のですから、定義自体が成立しません。

そこで、深草は定義を認識論のレベルにずらして、我々がそれを絶対に知る可能性がないといふことをもって「絶対無」の定義とすることを提案しました。そして深草は素朴に言ひました。「となると、『絶対無』の世界の中に認識がなぜか生まれ出て、主客の対立が生じたといふことか」。対して崎山さん曰く「そのやうに『絶対無』の世界を既知のものとして(対象化して)扱ふことはできない。知られたものは知り得ないものではないからだ。だから、主観と客観とが独立してゐるとは考へるべきではない」。

▼不可知なものについてのこの議論も道場で何回か繰り返されて来たものです。崎山さんの立場はフィヒテを思ひ出させるものですが、果たしてこの立場は不可知論と呼ぶべきなのかどうか、今の私が迷ってゐるところです(スピノザのやうな独断論よりは批判的であるといふ意味では確かに不可知論ですけれども)。

itikun的「独我論」

itikunさんは先述のやうに、経験の外に位置する「他者」に対して「存在する/存在しない」といふ述語を設定することはできないと主張します(といふのもこのやうな述語の使用が保証されるのは経験の中だけだからです)。これに対し、深草は「同様のことが『私』自身についても言へるはずだ。といふのは自分自身を意識するときは経験される私と自分自身を経験する私とに分裂してをり、経験してゐる方の私は常に経験からはみ出してしまふからである」と述べました。

▼このやうな立場を「独我論」と呼ぶのは不適切でせう(ここでは語の定義として提出されてゐるので問題になりませんが)。歴史的に観てこれを「現象主義」とか「現象学」と呼ぶべきかどうかまで私は判断できませんが、経験界を中心に扱ふ立場にちなんだ名称がヨリふさわしいでせう。

【約5700字】

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コメント

主観的情報と客観的情報

「うみねこ量」と「情報量」などという具合に対比させるものではなく,前者は認知心理学や一般に神経科学が扱おうとしている情報の量という意味で主観的情報の量,後者は物理的側面のみに注目した情報の量という意味で客観的情報の量と呼ぶべきだろう。おそらく両者にもっと適切な用語があるはずである。前者はテレビの番組制作や映像などのソフト面で問題にされる量,後者はテレビ受像器などのハード面で問題にされる量と言えよう。ただ,今回の道場では後者の側の参加者の方が多かったように思えるし,StudyUnionを構成している人々も後者の人が多いように以前から感じている。これは明らかに片手落ちであるが,後者の人が多いと自然と後者の人しか集まらないということもある。

私がブログやmixiの日記などでこのことを問題にした時も,なぜか情報科学系や物理系の人しか議論に参加してこなかったように思えるが,私の問題の提起の仕方がまずかったか,情報科学系や物理系の人の発言で埋め尽くされたので上記前者の立場の人が発言しにくくなった,ということもあったかも知れない。

いずれにしても,私には真っ黒または真っ白な画面からは何も得られる方法がなく,絵が映ってゐる画面の方が『情報量』が多いのは<自明である>と思える。また機会があれば,認知心理学や神経科学系の人を巻き込んだ議論がしたい。

投稿: うみねこ | 2006年8月31日 (木曜日) 11時03分

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