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2006年9月 6日 (水曜日)

第19回哲学道場高円寺「理性」

東京・高円寺で開催された哲学討論会(第19回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。

  • 開催日時:9月2日(土)午後
  • 開催場所:高円寺北区民集会所(高円寺駅北口徒歩6分)
  • 参加者:以下の四名(敬称略)。崎山ワタル・ときおちゃん・どんさい・深草周(五十音順)。
  • 今回の討論テーマ:「理性」
  • 発表:予定発表者深草による発表。レジュメはこの記事の最後に掲載。飛び入り発表はなし。
  • 次回の開催予定日:10月7日(土)
  • 次回の討論テーマ:今回と同じテーマで行ひます。従って「理性Ⅱ」です。
  • 次回の予定発表者:どんさいさん
  • 問合せ先:kusyaku_nikenあっとまーくyahoo.co.jp(管理人深草周)。
  • 関連リンク:

以下、具体的内容について報告します。

発表

まづ私の発表の内容を以下の議論と関連する範囲で述べますと、「理性」とは三段論法などの推理の妥当性を判断する能力であり、これは普遍的なものであると見做してよいといふ見解になります。――レジュメの内容は他にもありましたが、今回の議論では採り上げられませんでした。このやうに哲学道場ではレジュメはネタ振りに過ぎませんのでハズれる場合があります。

三つの箱、或いは四枚のカード

これに関連して、崎山氏から二つの問題が出されました。

1.司会者がプレイヤーに三つの閉じられた箱を示す。司会者曰く、「三つの箱のうち、二つにはヤギが一匹ずつ入ってをり、残りの一つにはクルマ一台が入ってゐます。貴方がこの中から一つの箱を選んだら、私は残った二つの箱のうち、ヤギが入ってゐる箱を一つ開けて貴方に見せます。その後で貴方は自分が選んだ箱と唯一残ってゐる閉じてゐる箱と、どちらかを再び選ぶことができます。そして最後に選んだ箱の中身を貴方に差し上げます」。さて、それからプレイヤーは同じやうに見える三つの箱の中から或る箱を選び、司会者が宣言通りにヤギの入ってゐる箱を開けた。プレイヤーがクルマが欲しいとすれば、彼は自分の選んだ箱に留まるべきか、それとも残ったもう一つの閉じてゐる箱の方を選ぶべきか?

2.四枚のカードが並べられてゐて、それぞれスペードのマーク、数字の2、数字の7、ハートのマークが書かれてゐる(模式図にすれば、[●][2][7][○]と描ける)。この四枚それぞれについて、マークの裏には数字、数字の裏にはマーク(スペード・ハート・クラブ・ダイヤの四種類)が書かれてゐることが分かってゐる。今「偶数が書いてある面の裏には黒いマーク、即ちスペードかクラブかが書いてある(偶数⇒黒)」ことを知りたい。なるべく少ない枚数をめくってこのことを知るにはどうめくればよいか?

数学の問題として考へれば、問題1についてはプレイヤーは選択を変更した方がクルマをもらひ易く、問題2については「数字の2」と「ハートのマーク」との二枚のカードをめくるのが最適であることになります。なほ問題1に関しては計算用紙を大量に消費しながら議論し合ふ場面がありましたが私の報告能力を超えてゐるので省略します。

アルゴリズムとヒューリスティック

ではそのやうに数学的に推論して正しい解を求める方法(正確な用語ではないでせうがこれを「アルゴリズム」と呼んでおきます)は万能なのか、と言ひますと、崎山さんとしては勘や経験に頼るやり方(ヒューリスティック)の方が圧倒的に応用範囲が広く実用的であると主張します。ヒューリスティックであれば、面倒な計算などせずに、「問題1は二つに一つだから二分の一だらう」とか「問題2なら『スペードのマーク』と『数字の2』をめくればいいやね」と一瞬にして決めてしまへるので、多少不正確であってもアルゴリズムよりは遥かに効率的であるといふ主張です。

しかし、一方で正確な方法であるアルゴリズムとヒューリスティックとが相互浸透してゐることも見逃すべきではないでせう。アルゴリズムに熟練すれば、それが一見ヒューリスティックに見える判断の中にも含まれて来ることになります。

理性は計算能力なのか

三段論法の妥当性などは全く形式的であり、コンピュータにも扱へるものです。では果たしてそれが普遍的なのかといふと、少なくとも崎山さんとどんさいさんと深草の三人はかなり懐疑的であり、取り分けどんさいさんと深草は「それを『理性』と呼ぶべきではない」と考へてゐます(といふのは、この二人は理性を人間固有の能力であると捉へるからです)。一方で崎山さんはアルゴリズム以外の何かに「ヒューリスティック」といふ名前をつけてこれを「普遍的・一般的」であると考へてゐるやうです。

レジュメが活用できなかったことと、参加人数が少なかったこととを考慮して、次回も同じテーマで引続き議論することに致しました。

【約2000字】


第19回哲高「理性」レジュメ

ピーター・シンガー『実践の倫理[新版]』(昭和堂、1999)から、「理性と倫理」の項(p.378-384)を簡単にまとめました(以下、シンガーの観点から書きます)。

哲学史には「理性的に行為することは倫理的に行為することである」ことを論証しようと試みる流れがある。この主張は様々な形で現れるが、共通する構造は次の通りである。

1.倫理には一定の普遍化可能性、或いは公平さが要請される(倫理的判断の必要条件)。

2.理性は普遍的に、或いは客観的に妥当する。つまり、推論の妥当性は普遍的である。これは理論的・実践的を問はず、理性に関する一般的特質である。

3.上記1.に示された条件を満たす判断だけが2.に合致した客観的・合理的な判断になる。なぜなら私は、自分が他の理性的行為者の立場にゐたとしたら受容れないやうな判断を、その行為者が自分に妥当するものとして受容れるとは期待できないからだ。そして、もし二人の理性的行為者が互ひの判断を受容れることができないなら、2.よりそれは普遍的なものとは言へず、合理的判断ではない。倫理は私たちに自分の立場を超えた普遍的な観点に立つことを要請するから、理性が我々に普遍化可能な判断に基いて行為するやうに要求することが、その限りで倫理的な行為の要求にもなるのである。

上記1.と2.には納得できるが、これらから3.の結論を導くことはおかしい。ここでは「普遍的に妥当する」ことが、限定的な意味から強い意味(「普遍化可能性」と同義)に移行してゐるのである。「私の利益になることをすべての人にさせなさい」といふ完全に利己的な命令は、合理的ではあり得るが、しかし、普遍化可能性を持たない。また、それぞれ完全に合理的である利己主義者同士が利益を巡って争ふこともよくあることである(この場合、二人の判断は対立し、いづれも普遍化されない)。

さうすると、理性と倫理の連結を論証するこの試みは上手くいかないことになる。この連結を編み出す他の方法があるかもしれないが、もっと成功の見込みがあるとは考へ難い。克服すべき大きな障碍が幾つもある。

まづ、最大の障碍は実践的理性の本性である。ヒュームは行為における理性は目的に対してではなく、手段に対して適用されると主張してゐる。目的の方は私たちの欲求や欲望によって与へられなければならないのである。実践的推論が欲求されたものから始まること、これに反論しないことには自分の欲求を省みずに倫理的に行為することが合理的だとは言へないのである。

次に、自分を一定期間に渡って存在する人格であると捉へるならば、長期的な利害を考慮に入れることが合理的である、といふ議論があり(ネーゲル)、ここから「現在を数ある時の中の一つと見做す」ことを元に「自己を数ある他者の中の一者と見做す」といふ類推をしようとする議論がある。しかし、或る個人の生涯における時点間の区別と個人同士の区別とは全く違ふことである。シジウィックが述べるやうに、個人と個人との区別が実在的・根本的であることを否定するのは余りにも常識に反することであり、「個人にとっての合理的行為の究極目的を決定する際に、この区別を根本的なものとしてはならないということがどうやって証明されるのか、私には分からない」(シジウィック)。

ヒュームの見解と自己と他者との常識的な区別、この二つを克服して「合理的行為=倫理的行為」を論証する手段を私は知らない。

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