第6回京都哲学道場
京都で開催された哲学討論会(第六回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。
- 開催日時:8月27日(日)夜
- 開催場所:今出川通りにある某飲食店
- 参加者:以下の四名(敬称略)。aryu・itikun・スキゾー(schizo)・深草周(五十音順)。
- 発表:予定発表者深草によるレジュメ配布とその内容の口頭による説明。飛び入り発表はなし。
- 次回の開催予定日:10月
22日(日)21日(土)(変更に成りました) - 次回の予定発表者:深草周
- 問合せ先:kusyaku_nikenあっとまーくyahoo.co.jp(深草)。
- 関連リンク:
- 発表に使用されたレジュメ
- itikunさんによる報告
- スキゾー(schizo)さんによる報告(mixi内)
- 哲学道場mixi支部(mixi内コミュニティ)
- 哲学道場公式サイト(九月二十日開設)
予定変更
今回は場所も時間も予定から変更となりました。以下その経緯を簡単に述べます。
まづ13時に集合といふことだったのですが、itikunさんしか来ず、残りの予定参加者四名の方に一気にすっぽかされるといふ事態になりました。もう少し誘っておけばよかったといふ後悔の念がある一方、一気にドタキャンされた方が却ってマシかなといふ思ひもありました(今更ここに一人増えても被害者が増えるだけですので)。まあドタキャンされる方は毎回少なからずをられますし、連絡せずにキャンセルしたことを責めてもこちら側に何一ついいことは無いので、お互ひ気にせずまた都合のつくときに参加してもらへたらと思ってゐます。
さて、もちろんそのままitikunさんと二人でやっても問題はなかったのですが、どうせ二人だけだからと時間を夜に変更してaryuさん主宰の読書会「へっぽこ社会学」に参加しました。「へっぽこ社会学」さんは飛び入りの私たちを加へて八名となり、私は「ああ、ちゃんとなさってをらるるなぁ」と思ひながら皆さんの議論を聴いてをりました(今回は『不道徳教育』の最終回でした)。
それでまあ、あぶれて来た私たちを見兼ねたのか、「へっぽこ社会学」終了後にaryuさんとスキゾー(schizo)さんが残って下さいまして四人で哲学道場といふ段になったわけでございます。
オッカムの直知理論
私の発表はオッカムの直知理論に関する論文を簡単にまとめたものでした。
オッカムによれば、知(ここでは命題のかたちを取ります)には直知と抽象知の二種類があり、直知はその命題を肯定せしめるやうな個物が現前するために起こる知であり、抽象知とは頭の中の概念操作によって生じた知(従ってその内容に相当する事柄が現前する必要はない)のことです。
例へば、私が「ソクラテスは白い」と直知するなら、私の眼の前には白いソクラテスが存在しなければなりませんが、「ソクラテスは白い」と抽象知するに留まるなら、それは単にさう考へただけのことであり、眼の前にソクラテスが存在することは必要ではありません。
オッカムの提出したこの区別は認識する当事者本人がなし得るものとされてゐます。では直知と抽象知との区別はいかにして可能かといふと、オッカムは「直知の直知」によってそれが可能になると答へます。では「直知の直知」が直知であるかどうかを知るためにさらにメタ直知が必要になるではないか、といふとさうではなく、メタ直知の系列は有限に収まると言ひます。メタ直知(直知の直知)がベタ直知について判断するのは、それが直知であるかどうかだけであり、何についての直知であるかについては判断しないからです。ベタ直知が何についての直知であるかについては因果関係による推論が必要であり、これは以前経験的に得た原因→結果(ex私に対する.石の現前→石の直知)の関係を結果から原因へと逆推するものです(ex.今この直知が結果としてあるといふことは原因として石があるはずだ)。つまり、直知を完成させるにはメタ直知だけでなく、因果関係に基く推論も必要であるといふことになります。
すべては抽象知である
認識から独立したモノがあり、この実体を原因として認識が結果する、といふのがここから垣間見られるオッカムの認識論です。これに対し、「直知などは存在せず、抽象知のみである」とすれば「共同主観性」論に近くなるでせう(なぜ「共同主観性」論がここで出て来るかといふと最近の道場ではこれがメインテーマだからです)。
すべての知は直知である
すべてを抽象知に解消する立場を一方の極端に置くならば、他方には直知を擁護する立場を置くことができます。なるほど同一の実体xが認識Aにとってはaと映るのであり、認識Bにとってはbと映るのであると考へてもよいでせう。しかし、そのやうに実体xの属性(規定)が特定の認識との関係に還元されてしまふと、実体xそれ自体は何の規定も持たない不可知な何かになってしまひます。ここに「共同主観性」論者が漬け込む隙がありまして、「そんなワケの分からん実体は想定する意味がない。余計な説明装置である」といふことになります(まさにオッカムの剃刀です)。従って存在するのは個々の主観もしくはそれらの間に生起する機能である共同主観性でしかないといふ説明が幅を利かせることになります。
個人から行くか社会から行くか
認識から独立した外部を認めない立場を採るとしても、理論を個人の意識から進めるか、社会の存在から進めるかによって違ひが生れて来ます。itikunさんの場合も自分の外部を認めないのですが、彼の場合は飽くまで個人の意識に留まります(彼は「独我論者」らしいので)。一方で「共同主観性」論者は社会から出発し、役割演技と協働作業から共同主観性(その共同体に通底するものの見方考へ方)の生成を説明します。
個人は共同主観性に解消されるか
ラディカルな「共同主観性」論者は、或る個人はその個人が属する共同体(ex.学校・会社・宗教・文化圈など)の組合せによって決定される(還元される)と主張します。しかし、自分が属する共同体の組合せの函数が「私」であるかといふと、私は直感的に反発を感じます。スキゾー(schizo)さんは「人間はそれらの組合せだけではなくて、その上に欲望といふ私的なものを持ってゐるはずだ」と述べますが、果たしてこれが有効な批判になるのかどうか、私にはまだよく分かりません。
社会構成主義
私は「共同主観性」論の限界を超えたいと歯軋りしてゐる人間ですが、それに比べれば社会学に関心があるaryuさんは醒めた態度です。彼は「自分は社会構成主義の立場を採る」と述べ、「何であれ、私たちが現にそれが実在すると思って行動してゐるのであればそれで実在すると見做せばよい。共同体の内部でそれが実在すると見做されるならそれを前提にして論ずればよいだけであってわざわざ共同体の外に視点を移す必要は私には感じられない」と述べます。
感想
「共同主観性」論に対抗できるとすれば、抽象的で不可知な何か(カントの物自体がこれに当たるかどうかは分かりませんが)ではなくて、具体的な本質論を提出しなければならないと最近は考へてゐます。具体的、といふのはそれが認識にどのやうに現れて来るかが可能性として仮定されてゐるといふ意味です。あらゆる可能性を含んだ豊かで体系的な本質論を対象について仮設できれば、「共同主観性」論の限界が見えて来るやうに思ひます(少なくとも「共同主観性」論は対象と取組んでその本質を見出すための道具ではなく、既に出来上がった理論に対するカウンター的な意味合ひしか持たないだらうといふのが私の印象です)。
【約3100字】
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コメント
ごめんなさい。
すっぽかした四人のうちの一人です。
なんとなくですが
僕は直知の直知の直知といった
メタメタ直知は起こらないor不必要だと思いました。
投稿: aki_xela | 2006年9月29日 (金曜日) 07時20分