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2006年10月10日 (火曜日)

第20回哲学道場高円寺「理性Ⅱ」

東京・高円寺で開催された哲学討論会(第20回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。

では具体的な内容について私から報告します。

なほ先頭に▼があるパラグラフ(段落)は報告ではなく、特に討論会終了後にそのテーマについて私が思ひついたこと、もしくは考へたことです。また、以下の記述は実際の討論の進行に沿って書いたものではありません。

どんさいさんの発表

どんさいさんの発表によれば、「理性」とは意識の一種であり、意識とは生物の体外環境及び体内環境の反映表象系ださうです。レジュメではまづ生物を一般的に論じ、本能、記憶、感性的思考、悟性的思考、理性とレベルアップするカタチで論じられてゐます。

一定の刺激に対して一定の反応をするしくみは、特定の刺激を他の刺激から区別している。また、繰り返される反応を引き起こす動的秩序である。一定の刺激反応行動は本能である(レジュメより)。

うみねこさんはこの箇所について、「刺激→反応といふ図式では生命の起源、生命の独自性が隠蔽されてしまふ」と不満を述べました。しかし、どんさいさんと しては、ここで生命の起源や非生命との区別について論じてゐるのではなく、ただ現在観察できた事実を述べてゐるだけださうです。

感覚は刺激の対称性秩序として表象をとらえる。感覚器官は表象秩序、特徴を強調してとらえる。このしくみによって錯覚も生じる。対象に秩序をとらえようとする指向が想像力となる。他と区別される感覚刺激を感覚表象として対象化し、記憶する(レジュメより)。

また、レジュメのこの箇所に関して、scentless;solさんは「動物にも主客の二項対立はあるのか?」と疑問を述べてゐました。

▼これはどんさい氏の使ふ術語「対象化」の定義にかかって来る疑問ですね。

「秩序」とは何か

生物は保存される秩序である。生態系秩序として保存され、個体の新陳代謝秩序として保存される。遺伝子として物理的にも保存される(レジュメより)。

この説明に対し、深草は「『秩序』にも色々ある。この説明は私たちが「社会」と呼んでゐるものにも当てはまるやうに見えるが、生物と社会との違ひは説明されてゐないやうに思へる。どんさいさんにとってこの両者の違ひ(種差)は何なのか?」と問ひましたが、満足な答へは得られなかったやうに記憶してゐます。

対象を概念の論理的関係として認識するのが理性である。法則は理性によって理解され、表現される。概念表象を操作するのが理性的思考である。理性的思考は論理にしたがって概念を操作する。論理的思考は概念間の規定関係操作である(レジュメより)。

この説明について、深草は「ここで述べられてゐる『対象』としてはどうやら自然科学的な対象しか想定されてゐないやうだが、人間関係や神様なども充分対象として考へられるはずだ」と述べました。

▼自然科学などは自然といふ書物を人間が解釈した結果に過ぎず、物事を実現してゐる神の秩序(及びその認識)を無視するのはおかしい――といった言ひ方も 充分可能でせうし、そもそもどんさいさんが述べてゐる「存在」自体からして、どんさいさんの神のやうな絶対的なものになってしまってゐるやうに思へます。

意識は一つのものについての意識か

どんさいさんの「意識は一つの対象についての意識である」といふ主張に対し、次のやうな意見が飛び交ひました。

  • 深草「意識が何かについての意識であることは同意するが、その何かが『一つ』であるといふためには単位の設定が必要である。しかし、単位の設定など現れない最初の意識の場面において『一つ』などといふことを言ふことはできないはずだ」
  • scentless;sol「両手を合はせた時には複数を同時に意識するではないか」
  • おのざわ「右手にドライアイス、左手に焼けた石を持たされたらどう感じるか」

▼どんさいさんとしては「意識される対象は一つである→意識は一つである」と立論したいやうでしたが、数について語るにはもっと細かい議論が必要と感じます。

理性=自制

しばらく皆の様子を伺ってゐた暁さんは「どうもどんさいさんが述べてゐる『理性』は自分にはピンと来ない。自分は『理性』とは自己抑制だと捉へてゐた」と述べます。暁さんにとって「理性」とは「人間と動物とを区別するものである」「感情や欲望を抑へるものである」「戦争などの悪に走るのを抑へるものである」といった表現がしっくり来るやうで、確かに「理性」といふ言葉はさういふ文脈で使はれてもおかしくありません。

▼私の場合は理性≡自己意識といふ感覚なのですが、暁さんはヨリ実践的な場面での「理性」に着目してゐるやうです(もしかしたら「良心」といふ言葉に当たるものを想定されてゐるのかもしれません)。いづれにせよ、理性は社会の中で他者の視線を意識することを通じて形成されたものであり、それ故に人間は理性的動物=社会的動物である、といふ私の見方に反するものではないやうに思へました。

▼暁さんの意見からすると、どんさいさんの「理性」観は何だか平板で葛藤がないやうに思はれますが、どんさいさんは自己意識と理性とを別物と考へてをられるやうですし、ましてや実践を制限して来る規範(「~すべきだ」といふ自分への命令)と理性とは全く別物なのでせう。

感想

▼私としてはどんさいさんの自然科学中心主義が気に入りません(まあ天邪鬼な性分ですから(^^;))。といふのも、どんさいさんの素朴な実在観ではその対象を視る視点が充分に語られないと感じてをりますし、そのやうな固定的な視点が絶対的なものとして君臨する構図は、ひっくり返せば神が宇宙を見下ろす構図に等しいやうにも思へるからです。

▼今回はメインパネラーの崎山氏が欠席しましたが、皆様の積極的な発言により、何とか円滑に進行することができました(いつもはもっとぶっ飛んでます)。また、yuanqiaoさんからは運営に協力して下さる旨のお言葉を頂き感激してをります。

▼私の記憶能力及び表現力の不足から、必ずしも全員の発言を報告できてをりません。「こんなことも言ったぞ!」とか「深草の報告は私の意見を充分に記述してゐない。真意はかうだ」とか「こんな話題もあったよ」等の補足・訂正は歓迎してをります。このブログのコメント欄に書いて下さってもよいですし、御自分のブログやサイトなどに書いて下さればここから(もしくは公式サイトから)リンク致します。

【約3000字】

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コメント

 「意識の唯一性」についてこう表現すれば分かりやすいかも知れない。知覚には非意識と無意識と意識がある。非意識は大脳皮質以外での認知処理である。無意識は大脳皮質での非意識を対象にする認知処理で意識可能であるが意識ではない。意識は無意識を再帰的に対象にする大脳皮質での認知処理である。これらはすべて認知処理として神経系に媒介された情報処理過程である。無意識は非意識がもたらす感覚を入力情報として、出力情報によって運動系を制御する。無意識は各種情報を並列処理しているが、意識は単一処理しかできない。複数の感覚、感情、思考を感じていると思うのは意識が時分割して切り替えて対象にしているからである。意識はノイマン型であり、割り込み処理は無意識が担い、意識は割り込み処理を制御することはできない。従って意識の軌跡は単線であり、単線の記憶として自己の唯一性が意識される。

投稿: どんさい | 2006年10月21日 (土曜日) 09時10分

こんにちは、深草です。

>こう表現すれば分かりやすいかも知れない。

道場でいつも思ふのですが、説明が分からないと述べてゐるのではありません。なぜさう断言できるのか根拠が分からないと述べてゐるのです。

>意識は単一処理しかできない。

今のところ、私にはこれは根拠のない主張にしか見えません(根拠が示されてゐるのではなく、どんさいさんにとってはこれが絶対の真実らしいといふことしか伝はって来ません)。

もし「意識は単一処理しかできない」と考へることは合理的であるといふ主張であれば私はそれに理解も同意も致しますし、上記のコメントもそのあり得る説明になってゐると思ひます。

しかし私には意識とノイマン型(逐次実行型)コンピュータとの類比が成立し得る根拠がそもそも示されてゐないと思へるのです(どんさいさんにとっては"自明"なのかもしれませんが)。

例へば「因数分解について意識する」「ベートーベン個人について意識する」「上司との関係について意識する」「礼儀を意識する」「右手のピッケルについて意識する」といった諸々の意識があり得ますが、果たして「因数分解」や「個人」や「関係」や「道具」、「礼儀」といったものに共通する一なる単位など設定できるのか? といふのが私の疑義なわけです。

「さう設定した方が説明し易い」とか「分かり易い」と言はれるのであればそれなりに納得できますが、どんさいさんの口調を聴いてゐると、どうやら「事実はそれ以外ではあり得ない」といふ感じで俄かに納得し兼ねるといふことです。

投稿: 深草周 | 2006年10月21日 (土曜日) 09時58分

 極端な話、コトバの表現や、説明はどうでも良いのです。

 対象の理解が問題なわけで、他の理解が成り立たなければ「事実はそれ以外ではありえない」とするしかありません。

 意識の対象はその時の主体にとっての重大事しかないわけで因数分解もベートーベンも上司もピッケルも、そのほかに電話の音とか、空腹感とか、失念したこととか、「個別」として対象化できるものはすべて主体にとっての重大性で相対的に選択され注意が向けられます。「その時」の単位は神経細胞網の処理単位時間でしょう。
 他に意識の方向性を規定するものでもありますか?
 主観的に大事なことに意識を集中できないから人は訓練をするのではありませんか?

投稿: どんさい | 2006年10月22日 (日曜日) 08時59分

追伸:
 意識は「因数分解」や「ベートーベン」をことばとして対象に出来ても、因数分解を対象にするときは組み合わせる個々の素数や組み合わせを意識します。ベートーベンなら個々の楽曲やその中のフレーズやリズムを「個別」として意識の対象にするでしょう。さらに、メロディーを意識するとリズムを意識することは出来ません。メロディーあるいはリズムを意識している時、全体である曲は無意識のうちで対象化することしか私には出来ません。(だから私は音痴なのかもしれません)
 一つの対象に意識を集中する訓練は、対象のより詳細な階調をとらえることでしょう。
 私以外の人も、これ以外の意識の仕方をしているとは思えないのです。

投稿: どんさい | 2006年10月22日 (日曜日) 09時49分

深草です。

>意識の対象はその時の主体にとっての重大事しかないわけで……「個別」として対象化できるものはすべて主体にとっての重大性で相対的に選択され注意が向けられます。

この点は同意できると思ひます。

>他に意識の方向性を規定するものでもありますか?

私は意識の方向性について議論してゐるつもりはありません。

>主観的に大事なことに意識を集中できないから人は訓練をするのではありませんか?

意識するのが上手いか下手かもここで私が問題にしてゐることではありません。論点がずれてゐると感じます。

上の記事にもあるやうに「意識が何かについての意識であること」には同意致します。また、同様に意識してゐる部分としてゐない部分とがあることも認めます。また、「主観的に大事なことに意識を集中できない」ために集中のための訓練をすることがあるのも認めます。

私の疑問(論点)は「意識の対象は一つか否か」といふことです。確かに対案が出せない弱さは認めるにしても、この論点に対して「意識が一つである」と言ひ切る根拠が見当たらないとまでは言へるので、さう述べてゐるだけです。

もしかしたら意識は複数の対象を同時に相手にしてゐるかもしれません。三つのボールでお手玉をする人は三つの対象に意識を向けてゐるかもしれません。そこでわざわざ「意識を向けてゐるのは常に一つのみであり、その瞬間において、他の二つに対しては無意識の処理を行なってゐる」と言ふのは臆断だと思ひます。

或いは(今思ひ着きましたが)どんさいさんは、意識の対象として扱へるものを最も根本的な「一」として定義する、と述べて居られるのですか。それならば私は納得できます。

投稿: 深草周 | 2006年10月23日 (月曜日) 02時00分

我が意を得たりというか、残念ながら先に越されていた。前野 隆司著、筑摩書房刊、「脳はなぜ「心」を作ったのか」。
1983年発表のリベットの実験を紹介している(p74)というので読んでみたらドンピシャ!私の世界観が特異なものではないことが、当然の帰結であることが分かるでしょう。

投稿: どんさい | 2007年1月13日 (土曜日) 18時25分

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