第21回哲学道場高円寺「神学」
東京・高円寺で開催された哲学討論会(第21回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです(なほ文中にあるYou Tube動画は予め参加者の方に同意をもらった上でで撮影・アップロード・掲載してをります)。
- 開催日時:11月4日(土)午後
- 開催場所:高円寺北区区民集会所
- 参加者:以下の6名(敬称略)。a-rain・崎山ワタル・どんさい・ノシ・深草周・rice(五十音順)。
- 今回の討論テーマ:「神学」
- 発表:予定発表者深草によるレジュメ配布とその内容の口頭による説明。飛び入り発表はなし。
- 次回の開催予定日:12月2日(土)
- 次回の討論テーマ:「時間・戦争・美しさ」。
- 次回の予定発表者:崎山ワタル氏
- 問合せ先:kusyaku_niken(あっとまーく)yahoo.co.jp(深草)。
- 関連リンク:
- レジュメ「自由意志による擁護論」
- 世界観組立の経過報告(どんさいさん)
- 哲学道場mixi支部(mixi内コミュニティ)
- 哲学道場公式サイト(九月二十日開設)
プランティンガの擁護論
今回はプランティンガの本の前半から一部をまとめて発表致しました。プランティンガの主張は「全知・全能・全善なる神が必然的に存在しないとは言へない、即ち、神はゐるかもしれない」といふもので、特に今回発表した部分から言へば、「この現実世界に道徳的な悪が観察されるからといって神の存在が否定されるとは限らない」といふことです。なほ、この議論は伝統的に神義論(弁神論、theodicy)と呼ばれてゐるものださうです。
全能なのに無能な神
今回レジュメには書けず、口頭で説明した範囲ですが、前提としてプランティンガは「神は論理的に整合的である」といふことを採用してゐます。つまり、神は私たちの論理によって理解可能なことを前提してゐます。といふのも、これを前提にしないと、神がこの世にもたらしたものがいかに不合理であらうとも、神は論理を超越してゐるのだから私たちがそれを理解できないに過ぎないとすることができるからです(これでは議論になりません)。
ですから、このレジュメの議論は神が矛盾律などの論理学の法則に従ってゐることを前提にしてゐます。プランティンガはこのやうに神の力能に論理的な限界を引き、そこから「神は、全能ではあるが、自分が気に入った可能世界のどれをも現実化できたわけではない」と主張します(a-rainさんから「全能ぢゃないぢゃん」と激しいツッコミが入ってゐましたが……)。
並行世界論――現実は幾つあるのか
プランティンガは現実は唯一のものであり、この現実世界以外は全て可能世界といふ見方をしてゐますが、どんさいさんは「むしろ並行した多くの現実世界があると考へた方がスッキリするのではないか」との意見がありました。実は私、あまりこのどんさいさんの意見がよく分かってゐないと思ふのですが、現実といふものは樹の枝のやうに分岐してゐてそれらの枝は相互に干渉しない(並行的)関係にある一方で、すべてが現実として創造されてゐるといふ考へ方のやうです。この考へ方を採ると、現実のあり方と無関係に神が想定できることになるでせう。即ち、神の創ったツリー状の現実世界の中で私たちがどの位置にゐるかが問題となるだけですから。……ただ、この考へ方に有神論者の人たちが安んずるかといふとさうではない気がしますが(^^;)。
全知者の存在と自由意志とは両立するのか
プランティンガは一連の議論の材料として人間の自由な行為を使ってゐます。人間Aが自由であれば、人間Aはいかなる先行条件や因果法則にも縛られずにその行為を開始できるのであり、神もその自由を与えた以上は人間Aの行為を束縛できないとしてゐます。
ですから、人間Aが或る行為をした世界としなかった世界と二種類の可能世界が考へられるわけですが、プランティンガは「神はその人間が現実世界においてその行為をするであらうかどうかを知ってゐる」ことを根拠にして二種類の可能世界が存在してゐると主張します。……しかし、するのかしないのか既に神が(全知であるが故に)知ってゐるのであればその行為は決定されてをり、自由といふ前提に反するやうに思へるわけです。プランティンガはこの疑問に対して『神と自由と悪と』(勁草書房、1995)のp.101-115でややこしい議論を展開してゐますが、この議論が成功してゐるかどうかについては私には判断し切れませんでした。
また、自由意志を説明してゐる箇所(p.42)に次のやうな記述もありますが、これに続く箇所に自由と予言不可能性とを区別する根拠の記述がなく、プランティンガにおける全知と自由との関係は謎です(分かる人は是非教へて下さい)。
ある人がある行為について自由であれば、その行為をするのもしないのも彼の自由である。いかなる先行条件も因果法則も(あるいはその両方も)、彼がその行為をすること・しないことを決定しない。問題の時点で彼がその行為をえらぶこと・することは、彼の権限内にある。このように考えられた自由は、予言不可能性と混同されてはならない。君は、たとえある状況において何かほかのことを自由にできるとしても、その状況で自分が何をするかを予言できるかもしれない。これはその行為について君が自由ではないことを意味するのではない。
余談
今回はかなりテクニカルな議論だったのですが、皆さんの呑みこみが早いせゐか、カラッと終はり、偉人伝の重要性など余談に花が咲きました。
【約2100字】
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