第22回哲学道場高円寺「時間・戦争・美しさ」
東京・高円寺で開催された哲学討論会(第22回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。
- 開催日時:12月2日(土)午後
- 開催場所:高円寺北区区民集会所
- 参加者:以下の6名(敬称略)。崎山ワタル・duality・どんさい・ノシ・深草周・yuanqiao(五十音順)。
- 今回のテーマ:「時間・戦争・美しさ」
- 発表:予定発表者の崎山さんによるレジュメ配布とその内容の口頭による説明。飛び入り発表はなし。
- 次回の開催予定日:2007年1月20日(土)
- 次回の討論テーマ:「笑い」。
- 次回の予定発表者:崎山ワタル氏
- 問合せ先:kusyaku_niken(at)yahoo.co.jp(深草)。
- 関連リンク:
- レジュメ「時間、戦争、美しさ」(提出され次第アップロード致します)
- 世界観組立の経過報告(どんさいさん)
- 哲学道場mixi支部(mixi内コミュニティ)
- 哲学道場公式サイト(2006/09/20開設)
発表
崎山さんからは真・善・美といふ三区分に沿ふカタチで時間・戦争・美しさについて発表して頂きました。実際の発表順は戦争→時間→美しさの順番で、それぞれのテーマごとに質疑応答・議論・ツッコミがありましたが、一番盛り上がったのは時間の議論でした。
戦争
崎山さんの論としてはまづ「戦争は絶対悪である」といふ命題を「人道的介入」や「正当防衛」などの具体的事例を挙げて批判し、次に平和を達成するためには倫理によってではなく、教育と制度形成によるべきであることを主張します。
なほ崎山さんが述べてゐる「倫理」といふ言葉の定義について、深草は多少違和感がありました。といふのも私からすると「日常的には反省されないけれども活用されてゐる道徳」といふ意味で崎山さんは「倫理」といふ言葉を使ってゐるらしく、一方で私は「倫理」といふ言葉を「倫理学」と同義と捉へてゐたからです。普段はその根拠が反省されない道徳について反省する営みが倫理もしくは倫理学と呼ばれてゐると私は捉へてゐました。
崎山さんは倫理の限界として、有効範囲・合理性・時代性・相対性・無反省性の五つを挙げました(この略称は私が後付したものです)。これに対し、ノシさんは以下の二側面の区別も考慮に入れられないかと提案しました。
- 倫理の実効性(それが現に役立ってゐるといふ事実)の側面
- 倫理の無根拠性(言語ゲームとして成立してゐるに過ぎない)の側面
時間
時間についての崎山さんの見解は、まづ「時間」といふ言葉の意味を次の四つに区別するのが生産的であるといふものでした。
- A:私的時間
- B:社会的時間
- C:計測的時間
- D:超越的時間
まづ私的時間は或る個人の主観的な時間でその個人が物心つく頃からその個人にとっての現在まで、線分のイメージで捉へられます。次に社会的時間は或る共同体で共有されてゐる時間(歴史)で、その共同体の成立(創世記、建国神話など)から現在まで線分もしくは半直線のイメージで捉へられます。第三の計測的時間は数学的な操作の対象となり得るもので、一般に物理学のものとされてゐる直線的な時間イメージはこれに該当します。最後にこれらのいづれにも該当しない時間として超越的時間があり、円環や螺旋のカタチでイメージされるやうな価値観が入った時間はここに分類されてゐます。
これに対してノシさんは、これら四つのものは単なる時間観に過ぎず、一つの時間の様々な側面でしかないと捉へてゐます。しかし、崎山さんはそのやうな唯一の時間、真なる時間を設定することが時間論が混乱する原因となってをり、また、これら四つの時間の間に共通なるものが見出せるかどうかは分からない(もしくはそんな必要はない)と考へてゐるやうです。
dualityさんはBとCとは大して変はらない(わざわざ区別する必要がない)と主張します。といふのも、dualityさんは物理学的に設定された時間(C)も合意に基く約束に過ぎないと考へてゐるので、Bと大差があるやうには思へないのでせう。
どんさいさんは崎山さんの不可知論に対してやはり絶対的な時間を設定してゐるやうでしたが、私には議論の流れが精確に追へませんでした(最後の方では眼の前のホワイトボードの有無について議論が交はされましたが、なぜ時間論からそこまで話が飛んだのか憶えてゐません)。ただ、崎山さんが不可知であるといふのは飽くまでもどんさいさんの論に対する場合であって、崎山さん本人にとっては不可知でも何でもなく、合意による存在観、時間観の形成がすべてであるといふ対立は変はらないやうでした。
美しさ
崎山さんは美しさについて、個人ごとに美的な価値観の全体があり、これは真偽や善悪と異なって他の個人と相違しても共存し得るものだと捉へてゐます。これを認めた上で崎山さんは美の序列化(美学)の方法として鑑賞される対象の解釈可能性の種類の多さ(多様性)によって美しさの量を決めようと提案します。
現になされてゐる解釈の種類の数ではなく、解釈可能性の種類の数を指標とするのかといふと、芸術の中には長い歴史の中で評価されるべきものがあり、現に人気がある作品よりも歴史的な作品の方を高く評価するために解釈可能性をモノサシにするとのことです。また、解釈可能性は対象に属するもの(属性)なので、自然物であっても適用可能なわけです。
一方で深草は崎山氏の主張と全く並行に「醜さについての解釈可能性」も設定できると考へます。もしこのやうに考へるなら、同じ作品に対して、美と解釈できる可能性100種類、醜と解釈できる可能性100種類が出て来た場合、どうするのでせうか。100-100=0としたり、100+100=200とするやうな簡単な片付け方はできないと感じます。
また、崎山さんは或る作品に対してアンケートを採れば美の根拠は大体分類可能であらうと述べてゐますが、例へ同じ作品とされてゐても、アンケート回答者が全員同じ「美」を鑑賞してゐるかどうかは大変疑問であり、この点についても遣り取りがなされてゐました。
【約2500字】
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