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2006年12月 6日 (水曜日)

第1回浜松哲学道場「哲学」

静岡県浜松市で開催された哲学討論会(第1回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。

  • 開催日時:12月3日(日)午後
  • 開催場所:JR浜松駅付近の飲食店
  • 参加者:以下の5名。itikunさん・崎山ワタルさん・深草周・横井直高さん・Yさん(五十音順)。
  • 今回のテーマ:「哲学とは何か」
  • 発表:予定発表者の横井さんによるレジュメ配布とその内容の口頭による説明。飛び入り発表はなし。
  • 次回の開催予定日:2007年2月4日(日)午後
  • 次回の討論テーマ:「21世紀は哲学に何を要請するか?」
  • 次回の予定発表者:横井直高さん
  • 問合せ先:kusyaku_niken(at)yahoo.co.jp(深草)。
  • 関連リンク:

今回もいろいろ議論は交はされたのですが、私の理解が浅いせゐもあり、報告は発表から理解したことをレジュメも参照しながらまとめるといふ程度のものになってしまひました。

根拠から現象へ

横井さんは哲学には世界の一切を網羅し、世界に対して個別的な観察を積重ねる(可能無限的)のではなくて、世界全体を一挙に捉へる(実無限化)ことが要請されてゐると述べます。

ところが、命題を真理として保証するためには、その命題に対して一階上(メタ)からの言明が必要になります。しかし、世界の一切を網羅した地点から「AはBである、は真理である」といふやうな真理性を保証する命題を立てるとしたら、それは神の地点に立つことになり、宗教或いは形而上学にと呼ばれるものになってしまふと横井さんは言ひます。横井さんはこの神の地点を決して語り得ない地点として「無」と呼び、哲学においてこれを追究しても、何が究極的な真理であるかを名指すことはできないと考へます。

そこで横井さんは方向転換し、語り得ない真理から、世界はどのやうに成り立ってゐるかといふ事実の記述に眼を向けます。事実は真理性において保証されてゐるわけではありませんが、真理と違って現にどういふ事実性(現象)が生起してゐるかは語ることができます。ここで横井さんは世界の一切の事実性を網羅的に捉へるといふ方向に向いてゐます。

第一原理の要請

横井さんはこのやうな哲学の体系化のために、或いはその網羅性から第一原理が要請されて来ると述べます。第一原理とは一切の前提を持たず、そこからすべての現象(事実性)が展開して来るやうな根本原理のことです。しかし、やはり第一原理はそれ自身が世界の中で言明されなければならない以上、矛盾を背負ってしまひます。横井さんは第一原理が無意味(ナンセンス)でないとしたらそれは「無」であると考へてゐます。

パースペクティブ性

横井さんは「無」、或いは自分自身は決して現象しない第一原理として「パースペクティブ性」を立てます。場所において、私が「ここ」を見出すのと同時に「あそこ」や「近く」や「遠く」が現れて来るわけですが、そのやうな相対的な位置関係が出現して来るやうな世界のあり方をパースペクティブ性と横井さんは呼んでゐるやうです(理解に自信がありません)。このパースペクティブ性において「他者-私」「世界‐私」といった対立の総体が現象して来るのださうです。

他者性

横井さんは「従来の哲学には他者がをらず、独我論的だった」と批判を述べ、他者が見出されてこそ世界の事実性(現象)を記述できる哲学になると言ひます。

ここで横井さんが述べたいことは、どうやら「私-他者」といふ構図は私の中から他者が現れるといふものではなく、パースペクティブ性といふ第一原理から両者が相対的な関係において現れて来るのだといふことのやうです。

他者は私の中から出て来るものではないといふ意味で、私とは異なるものですが、一方で私は自分のことを「私」と呼び、他者も自分のことを「私」と呼んでゐます。自分のことを「私」と呼ぶのは他者が自分を「私」と呼ぶことを承知の上で成立してゐる事態です。このやうな相手への理解において社会性(考へ得る違ひの範囲)が見出されて来ると横井さんは言ひます。

横井さんは私が全く想像もしなかった他者が登場することにおいて、「私のみの世界」と「他者が登場した後の世界」といふやうに、両者を時間的な断絶において、或いはそれぞれを瞬間において考へてしまふことに注意します。両者はパースペクティブ性といふ可能性においてつながってゐるのですから、他者が現れるといふ変化もパラパラ漫画的にではなく、「~しつつある」といふ相で捉へなければならないと述べます(ここも理解に自信がありません)。深草なりに述べれば、分数的・有理数的にではなくて、実数的に捉へるといふイメージなのかと思ってをります。

論者自身の登場

今までは横井さんが自分の理論を語るといふカタチで、論者(横井さん)と語られる論(その理論)とは切離されて記述されて来たのですが、レジュメの最後では論者自身が論の中に登場するといふ構図になってゐます。

横井さんの論は横井さんの論に同意しない他者の登場を含んでゐるわけですが、逆にもし横井さんと同じ考への人しか世界にゐなければ、横井さんの論は誤ってゐることになってしまひます。従って横井さんの論は論理的に他者を要請するものとなってをり、対話の基礎となるものだといふことです。

【約2200字】

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