« 詭弁の練習1「傘差し運転」 | トップページ | 卒業論文5/提出 »

2006年12月18日 (月曜日)

第9回京都哲学道場「分離脳」

京都で開催された哲学討論会(第九回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。

  • 開催日時:12月16日(土)午後
  • 開催場所:スタディユニオン事務所
  • 参加者:以下の五名(敬称略)。itikun・うみねこ・崎山ワタル・hiropon・深草(五十音順)。
  • 発表:予定発表者itikunさんによるレジュメ配布とその内容の口頭による説明。飛び入り発表はなし。
  • 次回の開催予定日:2007年1月21日(日)
  • 次回の予定発表者:itikunさん及び崎山ワタルさん
  • 問合せ先:kusyaku_niken(at)yahoo.co.jp(深草)
  • 関連リンク:

発表の内容

「もし私の脳が二つに切り分けられるとしたら、私はどうなるのか」といふ思考実験についてのレジュメでした。この問ひのポイントは誰か他人が切り分けられるのを観察するといふのではなくて、自分自身が切り分けられたらどうなるのか、といふ設定になってゐるところです。

itikunさんはこの問ひに対して次の六つを立場として提出してゐます。

  • 「唯物論」
  • 「自我現象説」
  • 「重ね合わせ説」
  • 「無作為説」
  • 「イメージ不能説」
  • 「不可知論」

このうち、「唯物論」と「自我現象説」はそもそも「私を切り分ける」といふ作業の前後は客観的にしか観察できず、この作業による主観の変化を主観自身が観察することはできないとする立場のやうです。つまり、この二説はそもそも問題設定を拒否する立場です。

次に、「イメージ不能説」と「不可知論」は、「私を切り分ける」といふ事態が想像不可能もしくは思考不可能であるとするもので、思考実験に対する回答を拒否するものです。

「重ね合わせ説」は自我の同一性が分離後も保たれ、肉体的には全く別個になってゐるにも拘らず一つの魂(?)を共有してゐるとするもの。「無作為説」は分離された二つの肉体のうち、どちらかに魂が付くはずであるとするものです。しかし、特に「無作為説」については「内容がよく分からぬぞ!」との叫びが参加者から漏れてゐました。

そもそも私は「私だった」のか?

まづ分離脳云々以前の問題として、「過去の私はそもそも存在するのか」といふ論点が崎山さんから提出されました。崎山さんの立場では過去や過去の私と呼ばれる実体は無く、単に記憶と記憶の解釈があるのみです。従って分離前のA氏と分離された二名の同一性は解釈によって決定されるといふのが崎山説になります。「私は分離された人間であり、分離される前はA氏であった」といふ認識は解釈によるものだとするのが崎山説です。

「私は切り分けられてゐる」と言へるか?

深草は次のやうに述べます。「『私は切り分けられてゐる』といふ認識は二つに切られた『私』を両方とも対象化しなければ成立しない。しかし、この対象化を遂行してゐる視点こそが『私』であるはずであり、この実験はそもそもそれを分離する実験であったはずである。従って実験がその設定に忠実に行はれたなら、『私は切り分けられてゐる』といふ認識は生れて来るはずがない」。即ち、切られる前に「私は切り分けられるだらう」と予想することや、事後的に「私は切り分けられた」と解釈することは可能でせうが、切り分けられてゐる本人が「切り分けられてゐる」といふ判断をすることは不可能であるといふことです。ですからここで問はれてゐることを「主観的に」知ることはできないといふわけです。

分離方法にも色々ある

hiroponさんは分離するやり方にも三通りを考へることができると述べます。即ち、分離前のA氏に対して、分離後は、

  • A氏とA’氏の二人になる(A氏の人格がコピーされるのと同じ)
  • A氏とB氏の二人になる(片方にA氏の同一性が継承される)
  • B氏とC氏の二人になる(A氏と同一性を持たない二人が現はれる)

の三通りが考へられると言ひます。しかし「そもそも空間的位置においては必ず異なるのだから、全く同一であるといふことはないはずである」(うみねこさん)との発言の通り、同じかどうかはモノサシの当て方(抽象の仕方)によって決まるので、現実には或る点では同じであり、他の或る点では異なる人々――即ち、似てゐる人々がゐるのみでせう。

比類なき「枠」?

itikunさんはhiroponさんの分類とは異なる次元で――超経験的な次元で、魂、或いは「枠」と彼が呼ぶものが私について廻ると言ひます。特に無作為説においては、一切の経験的な判断を超え、切られた当事者にも自己確認できないカタチで「枠」の同一性が保持されてゐるかどうかが決定されてしまふのだと言ひます。しかし、この考へ方は他の参加者には理解不能でした。

無作為説?

無作為説とは、この形而上学的な「枠」なるものが分けられた後のいづれの肉体に付くかが無作為であるとするものでしたが、この「枠」の同一性が保持されてゐるかどうかはそれこそ神様にしか分からないことなので、それが「無作為」であるといふこともitikunさん以外の参加者には理解不能でした。なほ「無作為」であるといふことはランダムであるとも解せますが、そもそも経験的に確かめられないことですから、試行してみることもできません。ですから、深草としては「無作為=無根拠」と解してみたのですが、根拠は無いと言って根拠になり得る神の視点すら拒否するとなると、やはり何を言ってゐるのかよく分かりません。

【約2300字】

|

« 詭弁の練習1「傘差し運転」 | トップページ | 卒業論文5/提出 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/19423/4595174

この記事へのトラックバック一覧です: 第9回京都哲学道場「分離脳」:

« 詭弁の練習1「傘差し運転」 | トップページ | 卒業論文5/提出 »