第10回京都哲学道場「中島義道批判」
京都市下京区で開催された哲学討論会(第10回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。
- 開催日時:1月21日(日)午後
- 開催場所:ひと・まち交流館京都第二会議室
- 参加者:以下の6名(敬称略)。itikun・崎山ワタル・takeshi・hiropon・深草周・めるろ~(五十音順)。
- 今回のテーマ:「中島義道批判」
- 発表:予定発表者の崎山ワタルさんによるレジュメ配布とその内容の口頭による説明。飛び入り発表はなし。
- 次回の開催予定日:2007年2月中旬から下旬を予定。現在調整中。
- 次回の討論テーマ:未定。
- 次回の予定発表者:深草周
- 問合せ先:kusyaku_niken(at)yahoo.co.jp(深草)。
- 関連リンク:
- レジュメ「中島義道の検討」(提出され次第アップロード致します)
- itikunさんによる報告10
- 哲学道場mixi支部(mixi内コミュニティ)
- 哲学道場公式サイト(2006/09/20開設)
発表
崎山さんによる発表の要点は次の通りです。
- 中島義道氏の著作のうち、次の部分は真偽の検討の対象にならない
- いかに苦しんだかといふ体験談(印象や好みでしか判断するものであって真偽を問ふものでないから)
- 特殊な体験に基く議論(特殊であるが故に帰納しても有効な議論にならず、また、多くの読者は中島氏と同じ境遇を共有してゐないため、説得力に乏しい)
- 中島氏の本が売れてゐるとしても、それは新興宗教書が売れるやうなものであって、本の売れ行きがいいことをもって真偽の検討対象として取り上げるべきだとは言へない
- 仮に文芸作品と見做すにしても著者の存在が強過ぎる(私小説的)ものであり、私小説は世界的に評価が低いので、私小説としても低い評価しかできない
- 一方、中島氏の時間論は真偽の検討対象として取り上げることができる
- 中島氏は現在のみがあって過去は作られてゐるとする時間観に反対し、逆に過去(記憶・痕跡)の想起によって私たちは現在を構成してゐると主張する
- 中島氏のこの主張に対する批判点は次の三点である
- 彼の時間観は崎山式分類の一部、即ち、個人的な時間感覚に過ぎない
- 時間を統一的に理解できるといふ根拠はない
- 意識的な想起を中心に考へると、記憶や痕跡が無意識のうちに形成されることが説明できない
検討の角度
中島氏の著作を一般的に(真偽に限らず)検討するにあたって、崎山さんが行なってゐない種類の検討が提案されました。即ち、itikunさんからは「文学芸術としてだけではなく、エンターテイメントとしての評価もあってよいはずだ」との提案であり、また深草は「中島氏は都会に溢れる看板や騒音についても批判してをり、彼の著書はさうした自らの主張を響かせるためのプロパガンダ或いはアジテーションとして評価してもよいはずだ」と述べます。これを受けて崎山さんは「娯楽もしくは宣伝煽動するといふ目的から見れば中島氏の著作は質が高いと思ふ」と述べました。
時間論
崎山さんによると、中島氏は「想起される情景が大脳の内側にあると感じるのは、それが大脳の外側にないといふ了解があるからだ」、即ち「ソトにないものはウチにあるはず」であるといふ「誤謬推理」が働くからだ、と述べてゐるさうです。
まづ、想起が身体の内側で起こってゐるといふイメージについてhiroponさん・itikunさんなどから「身体の外側で起こってゐるやうに感じられることもある」「空を見上げて、そこに人の顔が映ってゐるやうに想起することもある」との印象が述べられました。また、めるろ~さん他から「身体意識は道具を使って拡張可能である(道具が身体の一部として意識される)」と述べて、必ずしも身体の内外の境界が固定したものではないことを指摘しました。
それから「ソトにないものはウチにあるはず」といふ判断をするためには「ソトかウチか」といふ二者択一を採用する必要があります。「ソトにないものはウチにあるはず」を「誤謬推理」だといふのはその前提となる二者択一を採用してゐないからだと深草は受取りましたが、崎山さんの話ではどうもさうではないやうです。即ち「誤謬推理」の「誤謬」とは論理学で言ふところの非妥当な(invalid)推論形式であるといふことではないやうです。言ひ換へれば、「ソトにないもの」は必ずしもすべてが「ウチにあるはず」だとは言へないから、「ソトにないものは(必ず)ウチにあるはず」は「誤謬推理」である――と中島氏は主張してゐるわけではない、といふことです。
感想
今回はめるろ~さんとtakeshiさんが新たに参加して来てくれましたが、御二方とも稀に見る素晴らしいスピーカーで、今回は非常に参加者の質が高いと感じました。ただ、崎山さんの主張の前提となる部分についての解説やツッコミが激しく、それらを全部追ひかけてしまふと膨大な量になりますので、この報告からは省かせてもらひました(単純に私の記憶力ではフォローし切れなかったといふ事情もあります)。「こんな重要な話もしたぞ」とか「この論点が見落とされてゐる」といふことがありましたら、補足して下さることを期待します。
【約2300字】
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コメント
崎山さんの分析哲学的説明は、西欧の哲学の中で、多く見られる説明なのですね。僕の現象学的視点でいえば、その語られた言語の生成の問題なのですね。
例えば、「超越」という言葉一つをとっても、
カントがいう超越は、人間が認知できない人間の認識の外にあるものですね。
しかし、フッサールなどは、単なる「超越」と「超越論」区別し、「超越論」を物理現象の後にある意味づけられた世界を指し、
「超越」を時間や存在を超越した人間が認識し得ない物を指します。
つまり、誰々の「超越」であるかをいわないと、とんでもない誤解になるということを言いたかったのですね。
この場合は、「時間論」でしたので、それに準じた、その時間論を語った人の名を冠した言葉で綴らなければならないのですね。それが正確な意味の生成になります。
既に言葉があるとするのではなく、その言葉の生成まで掘り下げることが重要なのですね。
それが、現象学の立場ですね。
そういう固有人名のない言語の場合は、人と人との間の共通性を想定して、生成を語らなければならないですね。
僕も今「時間論」をやり始めていますが、結構、中島氏とは違う様相をしていますね。
人が違うと、全然雰囲気が違いますよ。
サイトへのアップはまだまだ先になりますが、
調べることが多くて、楽しいです。
投稿: めるろ~ | 2007年1月24日 (水曜日) 22時08分
itikunさんが、<自己紹介で1時間掛かった>と異常事態を指摘されていますね。
それは、人によって「コーヒー」の位置づけが違うという相対論よりも、人間の身体性や知覚に基づく根拠を求めながら、
その人が語る<言葉の意味の生成と「意味づけ」>まで到達すると、人間が共通に<知覚している世界>つまり、<言葉が生成されていない未分化の世界>に到達するのですね。
そこで、人は、共通の世界を見ることが出来るのですね。
「コーヒーのロット番号」は、言葉の生成の後の個人的興味に過ぎないのですね。それは深く知ったのではなく、人によっては「コーヒーの成分」であるかもしれないですし、「コーヒー缶の材料」であるかもしれませんし、「コーヒー缶のデザイン」であるかもしれないですし、最初に知覚出来ない部分は、相対論でしかなく、認識を根源的に問うたモノではない。
そもそも議論というのは、同じ地平に立たないと、批判するだけになってしまい、哲学本来の<我々の見ている世界の真理性>を解くモノではなくなるのですね。
それで、後から付け加えられたものを‘メタ・・・‘という命名で補わなければならなくなるのですね。
そういう相対論は、永遠の対峙から逃れられないのですね。
僕が分析哲学を乗り越えたのは、そういう観点からですね。
個人的テクニックから、普遍的テクニックに移行することが、
また、そういう観点を解明することが哲学本来の<真理性を問う学問>である所以なのですね。
‘メタ・・・‘的防御は、個人的テクニックとしては永遠に続くものですが、その先は「真理性か」と問われると、個人的テクニック以外の何者でもないのですね。
そこには、哲学が本来為すべき<普遍性>を解くものではないのですね。
‘メタ・・・‘そこには<テクニックの普遍性>のみが説かれているのですね。
哲学全体が第一義に持っている<形而上学>の種類は、もう語りつくされたのではないか。そうなると、
人類は、哲学全体の第二義の<倫理学>、つまり、人と人の間の研究に勤しむべきではないか。この倫理学が人間の身体性に由来する<普遍的論の形成>の後に、哲学全体の第三義の<宗教学・美学>に行くべきだと思うのですね。
この第三義までの過程は、随分先の結果なのですが、
美学というのは、絵画であったり詩歌であったり文学であったり彫刻であったりするのですね。祈りの構造性質が宗教学ですので、<「人間は弱い」だから祈る>という人類永遠の課題の解明なのですね。
仏教は、別に<仏が存在する>などという存在証明をする必要がないほど、日本人に自然に<どこに仏が居る>ということを指摘できるのですね。一番簡単な指摘は、「お墓の中に居られる。」ということですね。
西洋は、その統一性と統率が狙いなので、唯一神が先行するのですね。
ところで、深草氏に聞きたいのですが、
一度、「キリスト教の総本山は、バチカンのみであると・・・。」聞いたのですが、如何、考察されますか?
投稿: めるろ~ | 2007年1月26日 (金曜日) 05時37分
深草です。
>>一度、「キリスト教の総本山は、バチカンのみであると・・・。」聞いたのですが、如何、考察されますか?
私はキリスト教には全く明るくないので答へかねます。
「総本山は、バチカンのみ」と聴いても、松岡正剛氏が「キリスト教は実は混交宗教だ」と言ってゐたのを思ひ出して、ローマ=カトリックの立場では仰るやうに統一性が叫ばれたのだらう……と憶測する程度です。
投稿: 深草周 | 2007年1月26日 (金曜日) 10時29分
哲学全体が第一義に持っている<形而上学>の種類は、もう語りつくされたのではないか。
とんでもない!
形而上学はこれまで説明尽くされてはいません。
時間の起源についても、一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的にちゃんと説明をする必要があります。
一般法則論
投稿: 一般法則論者 | 2008年11月26日 (水曜日) 19時44分
>とんでもない!
とか何とかネット上でまどろっこしいこと言ってないで、反対意見(或は意見でなく真理ならベストですが)があるなら哲学道場で大いに議論しましょうよ、一般法則論者さん。地理的・時間帯的に難しければ相談に乗りますし、場合によってはこちらから乗り込んでもいいですよ。いつでも待っておりますから、その気になったらここに書き込むでも何でも連絡頂ければうれしく思います。
哲学道場
http://tetsugakudojo.web.fc2.com/
投稿: 深草 | 2008年11月26日 (水曜日) 22時13分