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2007年1月24日 (水曜日)

第23回哲学道場高円寺「笑い」

杉並区高円寺で開催された哲学討論会(第23回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです(アップされ次第、当日の様子を収めた動画を記事内に挿入致します)。

  • 開催日時:1月20日(土)午後
  • 開催場所:高円寺北区区民集会所
  • 参加者:以下の6名(敬称略)。アムロ・えすかるご・崎山ワタル・どんさい・ノシ・深草周(五十音順)。
  • 今回のテーマ:「笑い」
  • 発表:予定発表者の崎山ワタルさんによるレジュメ配布とその内容の口頭による説明。飛び入り発表はなし。
  • 次回の開催予定日:2007年2月3日(土)
  • 次回の討論テーマ:「性愛」
  • 次回の予定発表者:アムロ氏・崎山ワタル氏
  • 問合せ先:kusyaku_niken(at)yahoo.co.jp(深草)。
  • 関連リンク:

笑ひの再生産

崎山さんは笑ひの再生産を目的として三部構成の発表をしました。なほ崎山さんの「笑い」は定義が非常に曖昧なやうに見受けられるので、括弧付きで「笑い」と表記します。

笑ひの分類

「笑いの分類について」と題した第一部では、「駄洒落系」「ボケとツッコミ系」など笑ひの種類(?)を羅列し、これらのうち、共通する要素があるものを括り出さうとします。その結果、崎山さんは羅列した「笑い」を四種類に分類しますが、結局これは笑ひの理解の役には立っても笑ひの生産には使へないと結論します。

まづ、羅列された「笑い」については他の参加者から「予想とのズレを含んでゐるものが多い」との声がありました。「笑い」には思ひがけない要素・予想を裏切る要素が多くみられるものの、崎山さんは「それではお化け屋敷でビックリすることとの区別がつかない」と述べます。つまり、「笑い」の条件として予想を裏切ることが挙げられるにしても、それはせいぜい必要条件でしかないといふことです。

また、どんさいさん他の意見では、「予想を裏切る」といふことから、「笑い」には演者と観客との間で予め何かを共有してゐる(或いは共有させておく)ことが必要であらうと指摘されました。ここから深草は「笑ひこそ演者と話者との相関関係(共同主観性)においてその面白さが決定されるもので、唯一最高の『笑い』などはあり得ない」と述べました(といふのはどうも崎山さんがそのやうな「普遍的」な笑ひを追究してゐるやうに見えたからです)。言ひ換へれば、最高の「笑い」はオーダーメイドでしかあり得ないといふことです。

笑ひの普遍性・笑ひの価値・笑ひの「質」

崎山さんは「普遍的」な「笑い」を目指してゐるやうですが、この「普遍性」について、深草は「笑い」であるかどうかの基準と、「笑い」の面白さの量(価値)とが一緒くたに議論されてゐると感じました。つまり、その人が面白いと感じるかどうかとは別に「これは冗談である」と判断する基準があり得ます(自分にとっては全然面白くないけれども演者は冗談のつもりで言ったと判断することがありますから)。一方、或る「笑い」の面白さについては、それを「笑い」として認識する人々の中で、或る人にとっては非常に面白い、他の或る人にとっては全くつまらぬといふ量的な差があるわけです(この区別は、或る文字列が文章であるかどうかと、それが文章として面白いかどうかとの区別と同様です)。ここで「笑い」の「普遍性」といふのであればヨリ多くの人に――面白いかどうか(価値)は別として――「笑い」として認識されるかどうかのことだらうと深草は述べました。

深草の述べる意味でヨリ普遍的な「笑い」――それは演者と観客との間で共有するものが少ない「笑い」、例へば下ネタなどでせうが――がある一方で、どんさいさんは「笑い」の「質」を問題にすることができるはずだと述べます。どうやらこの「質」の高さとは演者と観客とが高度の教養を共有してゐることをその指標とするやうですが、これが普遍性や価値とどういふ関係にあるかはよく分かりませんでした(ただ、単純に普遍的でない「笑い」だとは片付けられないやうです。単に普遍的でない「笑い」には内輪ネタも含まれますし、内輪ネタの「質」は必ずしも高いとは言へないでせうから)。

笑ひの起源

崎山さんはサル学を参照して、「笑い」は地位の格差の相互承認から生れた表情であらうと推量してゐます。

笑ひの成層?

崎山さんはメディアの発達に伴って「笑い」が堆積して行くと主張します。メディアは「身内→社会→ラジオ→テレビ→ビデオ→ネット」と発達して来てをり、ネット時代の人は「身内」の「笑い」も理解できるが、「身内」時代の人は「ネット」の「笑い」は理解できないと考へてゐるやうです。

深草は次のやうに批判します。「例へば音声だけのメディアから音声+白黒動画のメディア、音声+カラー動画のメディアへとヨリ綜合的な表現へと発展してゐるといふ主張ならば理解できるが、『身内→社会→ラジオ→テレビ→ビデオ→ネット』といふ並べ方にはそのやうなモノサシ(並べ方の基準)が感じられない。単に歴史に登場した順(時系列)で並べることには何の意味もない。従って「笑い」が成層をなしてゐるなどと言ふことはできない」。

また、どんさいさんは「崎山さんはメディアといふ形式の問題と『笑い』の内容の問題とを一緒くたにして扱ってゐる」と批判します。少なくとも古い世代が新しい世代の「笑い」を理解できないといふ現象のあることと、メディアの発達によって笑はせるための選択肢が増えることとは別のことだといふことでせう。

アフォーダンス

崎山さんは心理学の概念を援用して、一般に「笑い」は或る環境を原因とした結果であるとされるが、実は両者の間に因果関係はなく、単に「面白い状況に或る表情が対応してゐるだけだ」と主張します。即ち、「笑い」とは偶発的な生体反応の一種に過ぎず、それに因果的に関係づけられる環境や感情は存在しないといふ主張です。

ここでは表情と感情との関係が問題になり、以下の二例が参照されました。

  • マオリ族では歯を剥き出しにして威嚇するが、我々にとってはその表情が「笑い」に見える
  • 俳優は感情の運動と表情の運動とを分離できる

崎山さんはこれらの例から表情によって「感情」――もしそんなものがあるとすれば――を判断することはできないと主張しますが、アムロさんは「表情と感情とが全く無関係だといふのは極端過ぎる主張だ」「俳優にしても全く表情だけを動かして演技してゐるのではなく、心の中に別の感情主体を生み出してゐると考へるべきだ」と言って反対します。

一方で深草は次のやうに述べます。「文化集団ごとに表情と感情との対応関係が異なるのは、色とその名前との対応関係が文化ごとに異なるのと同型で、対応関係そのものは異文化間でも保存されてゐるのだから、この事例で崎山さんの主張を支へることはできない。一方、俳優の演技にしても、表情と感情との一般的な対応関係(対応の傾向)が前提されてこそ表情によって観客を騙すことも可能になるはずで、表情と感情との間にある一般的な対応の傾向まで否定するのは行き過ぎである」。

――次回のテーマは「性愛」です。御問合せはkusyaku_niken(at)yahoo.co.jpまでお願ひ致します。

【約3100字】

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