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2007年3月 1日 (木曜日)

第11回京都哲学道場「無の分類」

京都府京都市で開催された哲学討論会(第11回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。

  • 日時:2月24日(土)午後
  • 場所:京大構内「京大哲学研究会」部室
  • 参加者:以下の7名。itikunさん・崎山ワタルさん・だいすけさん・深草周・Fさん・ぽよよんさん・めるろ~さん(五十音順)。
  • テーマ:「無の分類」(発表担当:深草)
  • 次回日程・御問合せなどは哲学道場公式サイトまでヨロシクです。

発表

今回の深草からの発表はインドの実在論学派による無の五分類の紹介と無の知覚に関するものでした(宮本啓一『インド哲学七つの難問』から要約)。

インドの実在論学派のヴァイシェーシカ哲学では無を以下の五つに分類してをります。

  • 関係無(有性と実体などが結合・内属しないこと。生成消滅するものとしないものとがある)
  • 先行無({生ずる以前に結果は}まだない)
  • 破壊無({消滅した後にものは}もはやない)
  • 絶対無(生じる原因がなく、過去現在未来に渡って無い。兎の角など。生成消滅しない)
  • 交互無(「~で無い」)

また、ニヤーヤ学派では「床における水がめの無」の知覚について、「限定されるものと限定するものとの関係」による知覚であると分類してゐます。即ち、 「床における水がめの無」は単なる床を見るのではなく、「水がめの無」によって限定された床を見ることによって知覚できると考へます。

禁じ手

インド実在論(⇔唯名論)は「言葉があればそれに対応する対象が必ず存在する」と考へます。従ってインド実在論では世界について雄弁に語ることが可能です が、この語りを可能にしてゐるのはそれが言葉の使用に一定の限界(禁じ手)を予め設けてゐるからです。この禁じ手によって無限後退に陥るといふ論理的過失 を避け、存在論を語ることが可能となってゐます。

量的な「無さ」

上記の分類では専らカテゴリカルな無が問題にされてゐますが、一方で量的な無は考へられないのか、といふのが深草の疑問でありました。それぞれ異なる言語 体系を持った複数の認識者がゐる場合、言語(ラング)と相関的に対象が存在するわけですから、この場合、その対象を認識可能な人数に応じて「存在度」が設 定可能です。

有が属性なら、定義によって「神」すら存在するか?

インド実在論では有が最高のカテゴリとして、一つの属性として立てられてゐます。有が特別な属性でないとすると、任意の対象に有性を定義することによって、それを現実に存在せしめることができるのか、といふのが深草の疑問でありました。

これに対しては「確かに定義によって何がしかが存在するとは言へよう。しかし、その何がしかが、例へばキリスト教で考へられる唯一神であるとは言へない」との答へがありました。

脱線話:代表することの暴力性

今回も幾つか脱線した話がありましたが、その中で、崎山さんから「効率性だけは高ければ高いほどよい。社会はパレート最適を目指すやうに変って行けばよ い」といった発言がありました。一方、Fさんは「そのやうな数学的合理主義ですべて割り切れるものではない。言葉によって表すこともさうだが、或る種の人 々を代表することには常に暴力が伴ふものだ」といったことを述べられました。この後、しばらくお二方は言ひ合ひをなされましたが、イマイチ噛み合ってゐな いといふのが私の感想です。

【約1400字】

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