第12回京都哲学道場「善悪」
京都府京都市で開催された哲学討論会(第12回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。
- 日時:3月4日(日)午後
- 場所:京大構内「京大哲学研究会」部室
- 参加者:以下の8名。itikunさん・崎山ワタルさん・Sさん・だいすけさん・深草周・Fさん・ぽよよんさん・めるろ~さん(五十音順)。
- テーマ:「善悪」(発表担当:めるろ~さん)
- 次回日程・御問合せなどは哲学道場公式サイトまでお願ひ致します。
発表
めるろ~さんの発表は過去の倫理説を一瞥した上で、他者との関係において善悪が決定されるとするものでした。
分類すること
過去の倫理説も結局は「自己×他者」の構図に即して、一対一・一対多・一対零といった分類に収斂するといふ崎山さんに対し、Fさんは「分類することは暴力 的である」と述べます。確かに個性を尊重する立場からすればさういふことになりますが、しかし、「分類する前の方がもっと暴力的である」と深草は考へま す。
また、私としてはFさんの言ふ「暴力的」といふ言葉から扇動的な印象を受けます。個性を捨象することが全て「暴力的」とレッテルされて否定されるのであれ ば、それこそ「暴力」であって、現実には扱ふ対象を平均的個人として処理しなければ片付かない仕事(例へば裁判実務など)がたくさんあるはずです。
相手に喜ばれることが善いことか
めるろ~さんは、まづ自分が自分の基準に照らして「自分のして欲しいこと」を相手に施す場面を想定します。このとき、自分の中に或る個人的な道徳(A)が あり、それを元にこの行為はなされます。行為を施された相手は何がしかの反応を返し、自分はこの反応如何によってAを修正します。めるろ~さんはどうやら この修正が道徳の起源であると主張してゐるやうです。
一方、崎山さんは「しかし、果たして相手の反応に応じていちいちAを修正するだらうか? むしろ特殊事例として修正しないのが通常の態度だらう」と述べます。
また、Fさんは「例へば相手の自殺を止めた場合、助かった相手は時系列によって自殺を止められたことの評価を二転三転させるかもしれない。このとき、どれが『相手の反応』として採用されるのか」と疑問を呈します。
さらにitikunさんはこれに便乗するカタチで「自殺を止められなかった場合はどうか。そもそも相手の反応が存在しないだらう」と言ひます。めるろ~さんはここで第三者の反応などを持ち出して来ましたが、深草はその先まで議論を追ふことができませんでした。
これらの問題について用語の齟齬などがありつつも議論がありましたが、残念ながら時間切れのカタチとなってしまひました。
【約1100字】
| 固定リンク

コメント
アップご苦労様です。
先ず、ヘーゲルに倣って、
「道徳性」は個人の善悪判断で、「倫理性」は相手がある場合の善悪判断と規定していましたね。
一人称か二人称か、三人称かが問題になるのですね。
崎山さんとFさんの議論は、情景としてあっていると思うのですが、僕の主張は、道徳の問題ではなく、倫理の問題を解いていたのですね。
<善悪の判断の根源はどこにあるか>を解いていたのですね。
「ある行為の善悪は、他者が決める。それは根源としてである。」次の行為の善悪は、他者から自己に志向性を持って行われるので、その時には、他者の行為は事故がその善悪を決める。
というものでした。
一つの行為は志向性を持っていますので、
そこで行為の善悪を決めることが可能であるということですね。そこにトートロジーは無く、行為の連続があるだけですね。
私が良いと思って、行為をなしてもその行為の善悪は、他者が決める。
それは、相手であり、法による他者であったり、する。
(この点は、まだ検証していません。)
そういうことをいいたかったのですね。
倫理学の本を読むと、私が善と決めたものは善になるという主張が殆どで、レヴィナスのように、<相手の判断が私の行為の善悪に含まれなければならない。>という命題を含むものは少ないのですね。
あっても、依然一人称ですね。
僕はそこで、二人称や三人称の言説を提示したので、
混乱されたのではないかと思います。
最後の崎山氏の指摘は、「<行為には相手がいる>という前提が無ければ、どうなるのか。」という指摘でしたね。
そこでは、ヘーゲルのいう道徳性に戻ってしまい、
僕が詰まってしまう状況になったのですね。
それに関する現象学者の本を読む時間が無かったので、
回答に困窮したでしょう。
しかし、時間となりました。。。でしたね。
めでたし、めでたし。。。
投稿: めるろ~ | 2007年3月23日 (金曜日) 19時19分