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2007年3月14日 (水曜日)

今日の雑感2

今の私が「後の私」のために記録しておく。この記録にはまとまりがなく、前後が単なる連想によってつながれてゐる部分があると今の私は判断する。

  • 安井邦男『現代論理学』(世界思想社、1991)で行き詰ってゐる。何度か諦め、何度か再挑戦したが、今回も諦めざるを得ないやうだ。p.56のNQにおける全称導入(∀-入)と存在除去(∃-除)との付帯条件がどうしても理解できないのである。焦点をメモしておけば、なぜ「従属する仮定のうちに自由変項として現われてはならない」といふことが或る変項の任意性を保証することになるのかがよく分からない。自由変項として現はれてはなぜ不都合なのか、具体例が思ひつかない。全称導入に対するコメントとして「つまり,xが∀xAが従属するある仮定のうちに自由変項として現われるなら,xはその仮定を満たす限りでのxであるという1つの制限を受けることになるが,そうでなければ,xはまったく任意の個体を表わすわけである」とあるが、自由変項として現われることがどうして「1つの制限」になるのかが分からない。束縛変項だと「制限」にならないのだらうか……? これらを鵜呑みにして先に進んでもみたが、やはり納得できないと感じて戻って考へてゐるところである。他の教科書も覗いてみたが、使ってゐる記号が異なる上にどうも安井氏とは違ふ視角から説明してゐるやうで、安井氏の記述を解く手がかりにはならなかった(他の教科書の記述は呑み込めるのに安井氏の記述だけが呑み込めないのが不思議である)。仕方が無いので他の教科書で学び直すことを検討し、もし疑念が氷解することがあれば戻って来よう。
  • 機能主義者・廣松渉の『弁証法の論理』を要約してゐる。第七信の要約が終はり、廣松氏が提案するところの函数充当型の体系構成法の説明が始まったところだ。廣松氏には師匠が批判するところの「機能主義」的な面も確かにあるが、ひょっとすると現象を単にフェノメナルなものではなく、媒介されてゐる側面において捉へる点で師匠と共通してゐるのではないかと感じてゐる。この点は秀さんと共通してゐるのかもしれない(秀さんが支持する宮台氏は廣松氏を師と仰ぐ人だから)。しかし、師匠が現象主義を批判して提出した体系は現象の諸連関を現象の観察者との連関に置くだけではなく、現象の「奥」にまで言及するものである。《対象→認識→表現》といった過程をそのまま経験的に見渡すことのできる視点など実際には存在しないわけだから、この過程に関する師匠の表現は極めて独断的に見えてしまふのである。廣松氏の「函数」概念でこのやうな超経験的な過程関係まで扱へるかどうかによって、師匠の学説の意味がヨリはっきりして来るのかもしれない。

【約1100字】

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コメント

 『現代論理学』を持っていないので、どういう話なのかいまいち分からない(そもそも述語論理は苦手なのです)のですが、存在除去というのは量化法則の存在特例化(Existential instantiation)のことではないのですよね?

投稿 itikun | 2007年3月14日 (水曜日) 01時57分

いいえ、述語算NQにおける存在除去は存在特例化(EI)に相当するさうです。ただしNQではこれら量化子に関する四つの推論規則の適用条件がヨリ厳密に規定され、それがこの本では「付帯条件」として四つそれぞれに示されてゐます。

投稿 深草 | 2007年3月14日 (水曜日) 04時32分

 なるほど。これまたNQというのが分からないわけで、ますます分からないんですけれども、いまちょうど読んでいる上田泰治『論理学』の存在特例化につけられている条件「Xnは以前に言及されていない個体定項」の意味が分からず、もしや同じところで悩んでいるのではないかと思ったまでです。

投稿 itikun | 2007年3月15日 (木曜日) 03時14分

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