« 今日の雑感3: リンク改訂など | トップページ | 第25回哲学道場高円寺「夢」 »

2007年3月20日 (火曜日)

今日の雑感4: 祝・文庫化/三浦理論への疑問

  • 既に周知のことやもしれぬが、言語過程説の基礎文献『國語學原論』が文庫化されて復刊した! めでたいことである。ついでに(といっては失礼ですが)「文法の鬼」と呼ばれたかの碩學の主要著作も文庫化してくれると嬉しいのだが。
  • 積読になってゐる國語學関係の本を読まねば……。
  • 探求」の佐佐木晃彦氏が私の「関連リンク集」を利用してくれたとのこと、恐縮の至りです。
  • それにしても、「三浦つとむを信仰してゐる」とか何とか言ってゐる割に分析哲学的な議論が好きな私としてはやっぱり<関係=本質>は分からない……(引用は【真理は全体である(ヘーゲル) ― 読者の方からの感想に寄せて6 ―】から)。

    「関係」概念を駆使するのは、英米の経験論者もヘーゲリアンも同じなんですが、彼らは、自分たちと同じレベルでヘーゲルやマルクスの<関係>を見るから、ヘーゲルやマルクスがどういう位相において<関係=本質>としているのか理解できない。だからヘーゲルやマルクスを、「まったくわけのわからない事を言っている」「形而上学だ!」と非難するわけです。

    さう、ヘーゲルの言ってゐることなどまさに神秘思想にしか見えないといふのが、正直な感想になる(その神秘思想を読んでから書き殴った文章も後から読むと我ながら理解不能――まあこれは私の理解が浅薄だっただけなんだけれども)。

  • 不勉強のせゐもあってか、佐佐木氏の述べてゐる「止揚」概念は私にはよく分からない。正しく抽象すれば正しく展開できるとのことらしいのだが、「正しく」とは一体どんな種類の権利付けで正しく何だらうか? (これは「正しいわけがない」と言ひたいわけではなく、純粋に疑問だといふことである。以下も同様)
  • 以下、孫引きする(【真理は全体である(ヘーゲル) ― 読者の方からの感想に寄せて6 ―】内にある佐佐木氏から秀氏へのコメントの引用部分)。

    だからヘーゲリアン三浦さんの立場というのは、

    機能 → 実体 → 関係

    という機能実体の<止揚>において<関係>を定立するものだから、機能主義批判と即物実体論批判として成立しています。

    これを読んで自分の中でまとまりがついてゐない問題がまた浮上して来た。比喩的にではあるが、述べておいてみようかしら。

    まづ現象を自分の目の前に拡がるスクリーンに映じた像に喩へておかう。現象の「奥」、即ちスクリーンの向かう側に回ることはできないから、どういふカラクリで映像が映り、運動してゐるのかを直接にみることはできない。そこで師匠の本を読んでみると、「『奥』はかくかくしかじかの構造になってゐて、このやうな過程に基づいてこれこれの現象は起こってゐる」と説明されてゐる。しかも「『奥』が直接見えないから分からないと主張するのはカント的不可知論に陥ってゐるものと言はねばならない」ッてなことまで書いてある(やうに私には見える)。

  • では師匠の言ってゐることはこの素朴な受け取り方の通り、「奥」についての記述なのかと言へば、非常に疑問である。師匠も人間なわけだから、現象しか見えないのは私と同様で、師匠の説も現象を根拠に推論されたものに他ならないと考へることができる。このやうに考へてしまふと、師匠の説明からイメージされる「奥へ奥へと入り込んで行く」感じが逆転する。つまり、素朴には「奥」の方向へ入り込む記述が、上記の発想では逆に現象から「手前」の方向への推論に見えてしまふことになる。即ち、客観的記述に見えたものが、主観的推論に逆転する上に、客観的記述として深ければ深いほど主観的推論としては(それだけ推論の連鎖が長くなり、しかも必然的推論ではないから)危うくなるやうに見える。一体、この危うさをどうやって解消すればいいのだらうか? (ひょっとすると「実験」で解消できるかと思ってゐたが、佐佐木氏は実証できないと言ってゐるわけだから違ふのだらうか。それとも実は解消などする必要はないのか?)
  • ひょっとすると主観的推論も積み重ねればどこかで量質転化(?)して客観的記述としての資格を何らかの意味で獲得するのかもしれない(英米系の発想としてはまさに強弁にしか見えないが)。つまり、「全体」に到達して「体系化」できれば独自の価値を主張できるのかもしれない。しかし、今のところは「弁証法的体系」を構築したと言はれてゐる人はわづかしかゐないからいいやうなものの、そのやうな人々が同じ分野にたくさん出て来たらどうなるのだらうか。そのやうな「体系」は一意に決まるのか(この質問も英米系な感じ)。一体全体二つの「体系」の間にに優劣などつけられるのだらうか。つける必要がないのであれば(或いは人々がそれぞれの立場に応じて自分に都合のよい「体系」を採用すれば良いといふのでは)そもそもそんな「ものものしい」モノを作る必要はあったのだらうか。
  • ――といったやうなことでして、私などは師匠の深い考への核心には到底近づけぬと苦しんでをる次第です。三浦つとむ師匠を信頼する他の人たちはかういふ疑問に苦しまないのだらうか、或いはとっくに皆自分で「答へ」を出してしまってゐるのだらうかと呻吟したり焦ってみたりしてゐます(´・ω・`)

【約2200字】

|

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/19423/5757479

この記事へのトラックバック一覧です: 今日の雑感4: 祝・文庫化/三浦理論への疑問:

» ことばとは何か(2)――時枝誠記の言語観 [ことば・その周辺]
〔2006.11.06〕 素朴な直観は存外に真理を言い当てているものである。古来、ごく普通の人々が現に話されている言語音声を〈ことば〉あるいは〈言語〉であると考えていたことは、多くの言語において〈ことば〉や〈... [続きを読む]

受信: 2007年4月16日 (月曜日) 19時12分

コメント

久松潜一学徒?としては、時枝氏の助詞の概念は、違ふと思ふのですね。専門ではないですが・・・・。

三浦つとむ氏の著書は、本日届くようです。
ヘーゲルの止揚(アウフヘーベン)は、
具現化が問題になるでしょうね。

丁度、カントの超越論とフッサールの超越論が違う概念を示しているように、
ヘーゲルの止揚とフッサールの止揚も、違う概念を示しています。

哲学思考の<確からしさ>は、そういうところを見分けることから始まるでしょうね。

原点に戻ることが、近道ですね。
僕も、若き頃の書き物を読むと、論点が流れていて、
何でこんなもの書いたのだろうかと思うことがあります。
しかし、頭の中では、整理されているのですね。
これは現象学的還元を常にしているお陰でしょう。

投稿 めるろ~ | 2007年3月23日 (金曜日) 04時34分

佐佐木晃彦 です。
リンクして頂き感謝申し上げます。
HP改定をお知らせいたします。

【  随想 現実と論理 ― 南京事件論争に寄せて ―  】

をアップしました。

  補論1  歴史教育について

 補論2  尊敬する知識人の言辞に学ぶ姿勢 ― 信頼と懐疑の<矛盾>の定立 ―

は順次アップ予定。

南京事件のような現代史的にして政治的問題をHPで取り上げることには躊躇するものがあり、悩みましたが、アップすることにしました。

深草さんの問いについては、答えになるかどうかわかりませんが、いずれ「三浦つとむと<論理>」みたいなかたちで議論したいと思います。

投稿 佐佐木晃彦 | 2007年4月 1日 (日曜日) 14時10分

めるろ~さん:
>しかし、頭の中では、整理されているのですね。
>これは現象学的還元を常にしているお陰でしょう。

エポケ~することで整理できるんですか。整理しないことがエポケ~だと思ってゐたのですが……。

佐佐木晃彦さん:
>>深草さんの問いについては、答えになるかどうかわかりませんが、いずれ「三浦つとむと<論理>」みたいなかたちで議論したいと思います。

期待してゐます。三浦師匠の立場は一見非常に素朴でナイーヴな立場(であるが故に常識的には分かり易く見えてしまふ)に見えますが、それは飽くまで「否定の否定」が実践された結果であって単なる独断ではなく、説得的に議論できるはずのものと信じてゐます。

投稿 深草 | 2007年4月 2日 (月曜日) 05時35分

佐佐木晃彦ともうします。
【随想 現実と論理】改訂版
をアップしましたのでお知らせいたします。
http://galo2.hp.infoseek.co.jp/index.html

本業のほうがめちゃくちゃヤバクなってきて(かなり深刻)、
HP改定はこれを最後にとうぶんストップです。
自由業ってつらいなあ(´・ω・`)


投稿 佐佐木晃彦 | 2007年4月 9日 (月曜日) 13時18分

コメントを書く