今日の雑感5: 共同主観性論について迷走
- 佐佐木晃彦氏の論から「師匠における《関係》とは何ぞや?」といふことが気になり始めて、師匠で《関係》と言へば「関係意味論」だと思ひ至り、そこからソシュール的な構成的関係(シーニュ間の相補的関係)と師匠が言ふ《過程的関係》(私の場合、特に《像》の理論におけるそれが念頭にあるけれども)との対比ができないか、と考へたりしてゐる。目的としては過程説の側から構成説を転覆させたいわけである。が、これは私には重過ぎる石かもしれないし、問題として成立するとしても「構成説vs.過程説」なんて分かり易い構図には収まらないであらう(構成説にもそれなりの正しさがあるのだから、それを取り込む形で批判しなければならない――といふか一般に批判はそのやうにあるべきだらう)。
- 廣松の支持者である崎山ワタル氏などは「共同主観性に対する共同主観性」なんてものを持ち出して来るが、そのやうなメタ共同主観性を認めるのであれば無限後退に陥らざるを得ない。といふのも、私などが共同主観性一元論に反対して、「我々の認識はすべて共同主観性によって決定されてゐるわけではない。共同主観性を超えて認識を規制する原理A(例へば物理法則など)があるはずだ」と主張しても、崎山氏は「原理Aも共同主観性の一種に過ぎない」と切り替へしてくるからである。私がそこで原理Bを出しても崎山氏はすべて共同主観性に還元して来るわけである。つまりどんな原理原則も人間の認識の中にあるから、共同主観性に還元可能だといふ論なのだが、ここでいふ「人間の認識」とはこの問題について論じてゐる私たち論者の認識まで含まれてゐる。論者の認識は議論内容に対してメタの関係にあるわけで、それに対して適用可能な共同主観性は言はばメタ共同主観性であり、これは元の議論内容に含まれるベタ共同主観性とは区別されるべきものである。このやうに見て来ると、崎山ワタル氏の論法は無限後退を利用したものであり、共同主観性を幾らでもメタ化できるといふ前提に基づい て反論してゐることが分かるはずだ(これはバークリの「マスターアーギュメント」に似てゐる)。
- しかし、そもそも廣松によれば共同主観性は協働作業(『世界の共同主観的存在構造』では餅つきの例が挙げられてゐる)の結果として形成されるものであるはずで、世間話などの比較的ベタなレベルでは共同主観性も協働作業によって形成されてゐるとも言へようが、しかし、ひたすらメタ化して行く哲学談義の現場では協働作業から遊離した「共同主観性」が簡単に出現することになる。例へば「Aの主張は共同主観性によって決定されてゐると考へるBの認識は共同主観性によって決定されてゐると考へるAの認識は……」などと幾らでもメタ化させることはできるが、これは言葉の形式上だけでのことであって、一定以上メタ化してしまふと最早未だかつて誰も議論したことのない領域に入ってしまふ(といふのもこのメタ化は無限に続けることができるからだ)。そして議論といふ協働作業がなされなければ共同主観性が形成されるわけもないのだから、共同主観性を無限にメタ化させることによって共同主観性還元主義の論を張ることには無理が あるだらう。
- 宮田和保氏の『意識と言語』を再度引っ繰り返してみた。pp.220-231に渡って規範論の視点から廣松批判が展開されてゐるが、マルクスなどをまともに読んでゐない私には難解である。取り合へず、字面を辿ってみると、どうも次のやうなことらしい。「労働者と資本家との意志の対立(矛盾)の解決として規範が形成されるのであって、だからこそ労働者の資本家に対する反抗とそれに対する制裁がある。しかし、廣松の論(物象化論)では物象化と規範が一緒くたにされてをり、労働者の反抗する原因が説明できない」。つまり、廣松の論だとなぜ労働者が資本家に対立して運動するのか、その歴史の原動力みたいなものが説明し切れないといふことらしい。労働者と資本家とが必然的に対立するといふ構図に立てば恐らく正しい批判なのだと思ふが、私はマルクスやマルクス主義に 明るくないため、これに関してはまだ何とも言へない。また、「対立」「矛盾」といった語の内容もつかめてゐるとはとても言へない。
- ただ、廣松の論が共同主観性の起源を「餅つき」で説明できたとしても、一旦できあがった共同主観性がなぜ変化するかについては全然説明されてゐない(私はその説明を見たことがないし、私よりは廣松に詳しいであらう崎山氏からもそんな議論は聞けなかった)。形成済みの共同主観性がなぜ変化するのか――やはりこれは構成説のみでは説明し切れないだらう、いよいよ過程説の出番なのか?
- ――しかし、それで一番最初に思い付いた歴史的変化の原因がどうにも観念論的である(別に観念論的だから必ずしも不味いといふことはないが、ここでは歴史の原動力を考へようといふ究極的な場面なのだから師匠の支持者としてはイマイチな論になる)。私は先ほどメタ過ぎる「共同主観性」は協働作業から遊離して空語になってしまふと述べたが、この批判から真っ先に思ひつけるのは或る高次のメタ主観が自分よりベタな共同主観性を変革するといふ構図である。しかし、或る時代を変革するのがその時代の最もメタな主観であるとは――それが支配者であるにせよ、哲学者や思想家であるにせよ、はたまた「ナントカ精神」であるにせよ――何とも観念論まっしぐらな考へ方である。手詰まり。
【約2200字】
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コメント
やはり私の片手間の幸福論なぞと違い本格的ですね(>_<)
いつか道場にも日にちがあったら出たいと思うのでまた誘っていただけたら幸いですm(__)m
投稿 レイ | 2007年5月 6日 (日曜日) 04時28分
こんばんは
佐佐木晃彦と申します。
「数学屋のめがね」さんのブログをきっかけに、南京事件問題について取り上げることになりました。
そこで小室直樹さんの“法学の論理”を批判しましたが、小室さんの“論理”というのは三浦さんがよくいう「非弁証法的=形而上学的」議論の一つの特殊なあり方で、
<関係>というものを理解せずに現実の歴史を扱うと、どういうことになるか?…
その見本だと思いました。南京事件を論じるときの小室さんの“法学の論理”では、現実の歴史を<体系的・全体的>に扱うことが出来ません。無理に扱うと、現実離れした空理空論暴論珍説にしかならない。
仕事の方がたいへんで(仕事しくじったら無職に('A`)…)これまでのようにはHP更新はもう出来ませんが、<関係>概念において現実の歴史を扱うとはどういうことか?…南京事件に限らず具体的実例に即していろいろ書いていけたらと思っています。
HP更新をお知らせいたします。
http://galo2.hp.infoseek.co.jp/nannkinn4.html
【随想 フォーカスの問題 ― 「南京事件論争」 読者の方々の反応に寄せて⑧―】
投稿 佐佐木晃彦 | 2007年5月13日 (日曜日) 20時47分