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2007年6月24日 (日曜日)

第28回哲学道場高円寺「コミュニケーション」

東京都杉並区で開催された哲学討論会(第28回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。

  • 日時:6月16日(土)午後
  • 場所:高円寺北区区民集会所
  • 参加者:以下の4名。崎山ワタル・dualityさん・どんさいさん・深草周(五十音順)。
  • テーマ:「コミュニケーション」(発表担当:崎山ワタル)
  • 次回日程・御問合せなどは哲学道場公式サイトからご覧下さい。

発表

崎山ワタルによる発表は、ハーバマスとルーマンとの論争を踏まへた上で、「コミュニケーション」を次の三つに分けるものでした。

  1. 知的
  2. 日常
  3. 生理

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従来のコミュニケーション論は知的なコミュニケーション(論理的・数学的・理詰め)に対し、日常的なコミュニケーション(修辞・連想・多様な解釈)を補ふ べきだとするものですが、崎山はこれに生理的な反射行為(後天的なものを含む)を入れます。コミュニケーションの中には形式的・反射的になされるものがあ り、話し合ひの場で沈黙が続くことに抵抗感を感じたり、愛想笑ひなどがこの「生理」的なコミュニケーションに入るやうです。

コミュニケーション=意味の共有

どんさいさんはコミュニケーションを「意味の共有」であると定義します。どんさいさんの場合、脳と心との対応を前提した上でコミュニケーションは「人間」 同士でしか成り立たないと主張します。もっともいきなり「意味」って言はれてもピンと来ないのですけれども(質問すればよかった)。

コミュニケーション=相互作用

dualityさんはコミュニケーションを物質的な相互作用として捉へます。……それ自体としては反論しやうがありません(或いはそもそもコミュニケーションといふ名前で扱はれる視角からズレた話になってしまふとも言へますが……)。

コミュニケーション=精神的交通

そんな皆さんの喧々囂々をいつも眺めてゐる深草君ですが、まぁこの手の話になると質問だけといふわけにも行かないやうで、「工業製品のデザインなどを見ることも、表現(精神的形式の物質的コピー)による精神的交通といふ意味でコミュニケーションだ」などと言ひ出します。

ケロヨン

ぬいぐるみのケロヨンが登場します。或る人はケロヨンが大好きで、ケロヨンを抱きながらケロヨンと「会話」を行なうことが出来ます。彼(彼女)はケロヨンと「コミュニケーション」してゐると言へるでせうか。

崎山とdualityさんはコミュニケーションが成立してゐると考へます。崎山さんは当事者主義なので、本人が「コミュニケーション」してゐると言ひ張れ ば、コミュニケーションが成立してゐることになります。dualityさんの場合は物理的な相互作用の成立=コミュニケーションなので、本人に聴くまでも なく、第三者的にこれがコミュニケーションであると立証もできます。、

どんさいさんと深草は成立してゐないと答へます。といふのもケロヨンは人工物であり、精神を持った存在ではないからです。どんさいさんはこれを「ケロヨンは『人間』ではないからだ」と表現しますが、結局のところ、何が人間であり、何が人間でないかは曖昧で、これは独断的な印象しか与へない発言です(もちろんケロヨンであれば、多くの人から「人間ではない」といふ同意を引き出すことができるでせうが)。一方で、彼(彼女)はケロヨンでなく、ケロヨンの製作者との間でコミュニケーションしてゐるとは主張します。

当事者主義

人工物を通して、その製作者の認識を鑑賞者が受取ってゐることを深草は主張します。目前のペットボトルのデザインを通してデザイナの認識を我々は受取ってゐるのだ、と主張します。

崎山「このペットボトルのデザイナが誰かなんてことには大抵の人が留意しないし、ましてやその人物とコミュニケーションが成立してゐるなんて誰も思はないだらう」

深草「デザイナが誰かなどといふことは問題ではない。まづペットボトルをペットボトルとして認識してゐること自体が製作者の認識を受取ってゐることになる のだし、それを『コミュニケーション』といふ名称で呼ぶことに賛否があるとしても、学問上さういふカテゴリを設定して現象に適用することには何の問題もな いと思ふが」

崎山「だが、当事者が『私はこれの製作者とコミュニケーションなどしてゐない』と主張してゐるのにも関はらず、そのやうに『コミュニケーションしてゐる』と判断を下すのは独断的ではないのか」

深草「もちろん独断的だ。だが学問とは得てして独断的なものだらう。貴方のやうな当事者主義では何でもかんでも当事者に任せれば万事解決といふことにな る。風邪をひいても本人が否定すれば風邪ではないことになるし、凶悪犯でも本人が無罪を主張すれば、無罪といふことになるだらう」

……といふのは大分脚色が入ってゐますが、要するに深草は客観的・第三者的なコミュニケーションの基準が存在し得ると考へてゐるのに対し、崎山さんはコミュニケーションは当事者の主観的基準でしか成り立たないと考へてゐるやうです。

※(余談)まー何と言ひますか、三浦つとむの言説を墨守して独断的になる深草も公式主義的・教条主義的・全体主義的な印象で「左翼っぽい」ですが、一方で当事者主義を主張する崎山さんも弱者利権にたかる人々が透けて見えるやうで「左翼っぽい」ですね。

議論は次回に流れて行きます。次のテーマは「言語」です。

【約2200字】

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