第28回哲学道場高円寺「コミュニケーション」
東京都杉並区で開催された哲学討論会(第28回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。
- 日時:6月16日(土)午後
- 場所:高円寺北区区民集会所
- 参加者:以下の4名。崎山ワタル・dualityさん・どんさいさん・深草周(五十音順)。
- テーマ:「コミュニケーション」(発表担当:崎山ワタル)
- 次回日程・御問合せなどは哲学道場公式サイトからご覧下さい。
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東京都杉並区で開催された哲学討論会(第28回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。
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五月に各地で行なはれた討論会について書く。ニコニコ動画の見過ぎなど自己管理の甘さが祟って報告しようと思ってゐることが溜まってしまった。よって今回は各地で話されたことに対し簡単にコメントを付すだけにしておく。余裕があれば後から書き足したりコメントをつけるかもしれない(各回で使用されたレジュメへもアップロード次第リンクする)。
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東京都杉並区で開催された哲学討論会(第26回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。
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東京都杉並区で開催された哲学討論会(第25回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。
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杉並区高円寺で開催された哲学討論会(第24回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。
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杉並区高円寺で開催された哲学討論会(第23回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです(アップされ次第、当日の様子を収めた動画を記事内に挿入致します)。
崎山さんは笑ひの再生産を目的として三部構成の発表をしました。なほ崎山さんの「笑い」は定義が非常に曖昧なやうに見受けられるので、括弧付きで「笑い」と表記します。
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東京・高円寺で開催された哲学討論会(第22回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。
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東京・高円寺で開催された哲学討論会(第21回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです(なほ文中にあるYou Tube動画は予め参加者の方に同意をもらった上でで撮影・アップロード・掲載してをります)。
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東京・高円寺で開催された哲学討論会(第20回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。
では具体的な内容について私から報告します。
なほ先頭に▼があるパラグラフ(段落)は報告ではなく、特に討論会終了後にそのテーマについて私が思ひついたこと、もしくは考へたことです。また、以下の記述は実際の討論の進行に沿って書いたものではありません。
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東京・高円寺で開催された哲学討論会(第19回)の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。
以下、具体的内容について報告します。
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東京は高円寺で開催されてゐる哲学討論会の第17回で使用されたレジュメ二稿を掲載します。
まづ、おのざわさんのレジュメです。
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事実上の第1回から第10回に至るまでの哲学道場高円寺の記録を編集しました。私の日記からの引用に関しては、一部人名(ハンドルネーム)に関して現在に合はせて改変しました。また、参照の便宜のために、引用文中にリンクを付け加へた箇所があります。
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東京・高円寺で哲学の討論会を開催してゐます。今回(7月1日)の参加者は、riceさん、ackeyさん、アムロさん、a-rainさん、おのざわさ ん、dualityさん、崎山(S代表)さん、どんさいさん、深草の9名でした。ちなみに全員大学(出身/在籍)が違ふさうです。
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第16回哲高(テーマは「意識」)で使用されたレジュメです。本の中から一部を読んでまとめただけのものですが、やはり全体を読まないと著者の立場に立って説明をすることは難しいと感じます。手抜きはできません……。
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第14回哲学道場(04/01開催)のレジュメです。
今回は正直言って手抜きです。ごめん……。
(以下レジュメ)
中島義道『悪について』(岩波新書935、2005)第三章「嘘」のまとめです。カントは或る行為が道徳的に善い行為なのか、或いは偽善なのかどうかは経験的に判断できないとし、純粋に客観的な善意志に基く行為のみが道徳的に善い行為であると規定します。
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第13回哲学道場(2006/03/11開催)の発表に使用したレジュメです。最後の方では科学が云々となってゐますが、そんなに大袈裟なものではなく、要は不可知論と素朴実在論との間をとってみましたといった程度のものです(この「間を採る」「中庸」といふことが弁証法を身につける上で頼りになる発想かなと思ふのですが)。
なほ、相対的真理の「相対的」がいかなる意味かについては、三浦先生のレーニン真理論批判を含め、改めて書きたいと思ってゐます(一応簡単に言っておけば、絶対的真理がマルバツ式なのに対し、相対的真理は場合分け式であり、条件付きといふことです)。
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前回はいよいよどんさい氏と言葉が通じ始めたかにも思へ、建設的な議論へと発展する予感がしてゐましたが、今回(1月28日)は打って変はって議論が迷走し、絶望のズンドコに突き落とされた気分でした。
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先週土曜日に開催された哲学討論会で発表したレジュメを置いておきます。あの場における発表としては、独我論としての側面がうまく打ち出せず失敗してしまったと思ってゐます(以下レジュメ。一部日本語がをかしかったので修正した)。
「私」と世界
永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書020、1995)からウィトゲンシュタインの主張 【註1】を簡単に抜粋して説明します。この本ではウィトゲンシュタインを前期・中期・後期に分けて解説してゐるので、本稿でもその区分に沿ってレジュメ化してゐます。
1.前期――写像理論
前期のウィトゲンシュタインは世界を相互に独立な要素に還元して説明できると考へ、各々の要素を命題として考へました(『論理哲学論考』)。あらゆる命題はそれぞれ独立に真偽が決定でき、n個の命題で表される複合的な事態については2のn乗個の可能な状態が考へられます【註2】。そしてその可能な事態のうちで現実に起きてゐるものを彼は「世界」と呼びました。
このやうな世界観にもとづき、彼は言語を現実の反映だと考へました(写像理論)。反映することが可能であるのは、現実とそれを記述する言語表現とが論理的形式(写像形式)を共有してゐるからであり、命題中の各単語にはそれぞれ対象が、単語の並べ方には対象同士の関係が表わされてゐるとしてゐます。
『論考』において「語り得ない」とされてゐるもののひとつは、この「写像形式」そのものであると永井は言ひます。「机の上にコーヒーカップがある」といふ表現(命題)は、机の上にコーヒーカップがあるといふ事実を表してゐますが、この表現と事実との指示関係について、「『机の上にコーヒーカップがある』といふ表現(命題)は、机の上にコーヒーカップがあるといふ事実を表す」と記述しても、この記述を理解するためにはまづ下線部の「机の上にコーヒーカップがある」を理解してゐることを前提にしなければならないからです。従って、或る表現とそれが指示する事実との関係を正確に定義しようと記述を重ねても、無限後退【註3】に陥るだけですから、この関係、即ち「写像形式」は語ることができません。
「写像形式」は世界の形式そのものであるが故に語り得ないのですが、もうひとつ、逆に世界の外側にあるが故に語り得ないものがあります。ウィトゲンシュタインはそれを「倫理」と呼び、永井は「死」や「神」もこれと同種のものだと言ひます。これらは世界の限界を越えた事柄です。そして世界とは「私の世界」であり、記述者である「私」のゐない世界は考へられません。世界の外と写像形式に満たされた内とを隔てる限界が「私」であるといふことになります。そして、世界の外については記述不可能です。
2.中期――検証理論と文法
すべての要素命題はそれぞれ独立に真偽が決定できると捉へてゐたウィトゲンシュタインでしたが、中期に入ると、文法に規定された命題同士の関係に気付きます。例へば、「コーヒーカップは白い」といふ命題は、「コーヒーカップは黒い」を否定してをり、この関係は文法的に規定されてゐると彼は考へました。これは必然的な関係であり、これもまた究極的には語り得ないものとされてゐます【註4】。
この語り得ないものについて、ウィトゲンシュタインは「検証理論」と呼ばれるものを提出します。これはその命題を検証することができなければ、その命題は無意味であるといふ主張です。例へば、「机の上にコーヒーカップがある」などの命題について、経験的観察は常に誤り得るから完全に検証することは不可能とする立場がありますが、それではそもそも「机の上にコーヒーカップがある」がどういふ事実を指すのか分かってゐるはずがありません。我々は既に「机の上にコーヒーカップがある」といふ命題がどういふ事実を指すのか、従ってどういふ規準のもとに「机の上にコーヒーカップがある」と言ってよいのかを知ってゐるから、そのやうに言明できるのです。そして、このやうな意味の知識は文法に属することですが、それは語り得ないことに属してゐます。
3.後期――言語ゲーム
後期ウィトゲンシュタインは言葉【註5】の意味や規則の根拠を実践(言語ゲームのプレイ)に求めます。或る規則は実践は語られることによって示されるのではなく、ただ実践することによって示されるに過ぎません。この実践について語ることはできますが、それは実践そのものではあり得ません。従って、言葉の意味は究極的にはただ実践の形式(生活形式)によって示されるだけで、対象化して語ることのできないものとされます。
例へば、教師が学生に「+2」といふ指示を与へ、学生は「2、4、6、8、……」と書き綴っていくとします。ところが、100を越えたあたりから、彼は「104、108、112、……」と書き始めました。教師は彼を注意しますが、彼は自分は指示通りに書いたと言ひ張ります。この場合、教師は規則を根拠として彼を説得しようとしますが、或る規則とその適用(実践)との間には必ずスキマがあり、規則の適用の仕方がまた新たなる規則として常に現れて来ます。そしてこの新たなる規則とその適用の仕方にもまた規則を挟むことができます。このやうにして無限に続くので、結局、教師は実演してみせて、「かういふものだ」と言ひ聞かせる他ないわけです。このやうに考へてみると、規則は行動の仕方を決定できないといふことになるでせう。
規則が究極的には行動の形式(生活形式)に基礎づけられるとすれば、我々と共通の生活形式を持たない存在とは規則を共有することができないといふことになります。従って、私だけの或る感覚が、何らかの観察可能な条件と結び付けられて共有なものと成り得るのはそれが他者と生活形式を同じくするからであり、文法などの規則によって基礎づけられてゐるのではない、といふのが後期ウィトゲンシュタインの考へ方になると思はれます。
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