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<title>モノロゴス</title>
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<description>三浦つとむを師と仰ぐ深草の哲学ブログ。ただし脱線しがち。</description>
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<title>更新を無期限停止致します</title>
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<description>管理人の個人的な都合により本ブログの更新を無期限停止と致します。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;管理人の個人的な都合により本ブログの更新を無期限停止と致します。&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>深草周</dc:creator>
<dc:date>2007-08-26T21:08:32+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/06/28_630b.html">
<title>第28回哲学道場高円寺「コミュニケーション」</title>
<link>http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/06/28_630b.html</link>
<description>東京都杉並区で開催された哲学討論会（第28回）の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。 日時：6月16日（土）午後 場所：高円寺北区区民集会所 参加者：以下の4名。崎山ワタル・dualityさん・どんさいさん・深草周（五十音順）。 テーマ：「コミュニケーション」（発表担当：崎山ワタル） 次回日程・御問合せなどは哲学道場公式サイトからご覧下さい。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;
東京都杉並区で開催された哲学討論会（第28回）の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。&lt;/p&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;日時：6月16日（土）午後&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;場所：高円寺北区区民集会所&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;参加者：以下の4名。崎山ワタル・dualityさん・どんさいさん・深草周（五十音順）。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;テーマ：&lt;strong&gt;「コミュニケーション」&lt;/strong&gt;（発表担当：崎山ワタル）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;次回日程・御問合せなどは&lt;a href=&quot;http://tetsugakudojo.web.fc2.com/&quot;&gt;哲学道場公式サイト&lt;/a&gt;からご覧下さい。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;&lt;h4&gt;発表&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;崎山ワタルによる発表は、ハーバマスとルーマンとの論争を踏まへた上で、「コミュニケーション」を次の三つに分けるものでした。
&lt;/p&gt;

&lt;ol&gt;
&lt;li&gt;知的&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;日常&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;生理&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;

&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://wwmd.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/tdk28_3.jpg&quot; onclick=&quot;window.open(this.href, &#39;_blank&#39;, &#39;width=320,height=240,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0&#39;); return false&quot;&gt;&lt;img width=&quot;100&quot; height=&quot;75&quot; border=&quot;0&quot; alt=&quot;Tdk28_3&quot; title=&quot;Tdk28_3&quot; src=&quot;http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/images/tdk28_3.jpg&quot; style=&quot;margin: 0px 5px 5px 0px; float: left;&quot; /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;従来のコミュニケーション論は知的なコミュニケーション（論理的・数学的・理詰め）に対し、日常的なコミュニケーション（修辞・連想・多様な解釈）を補ふ
べきだとするものですが、崎山はこれに生理的な反射行為（後天的なものを含む）を入れます。コミュニケーションの中には形式的・反射的になされるものがあ
り、話し合ひの場で沈黙が続くことに抵抗感を感じたり、愛想笑ひなどがこの「生理」的なコミュニケーションに入るやうです。&lt;/p&gt;

&lt;h4&gt;コミュニケーション＝意味の共有&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;
どんさいさんはコミュニケーションを「意味の共有」であると定義します。どんさいさんの場合、脳と心との対応を前提した上でコミュニケーションは「人間」
同士でしか成り立たないと主張します。もっともいきなり「意味」って言はれてもピンと来ないのですけれども（質問すればよかった）。&lt;/p&gt;

&lt;h4&gt;コミュニケーション＝相互作用&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;
dualityさんはコミュニケーションを物質的な相互作用として捉へます。……それ自体としては反論しやうがありません（或いはそもそもコミュニケーションといふ名前で扱はれる視角からズレた話になってしまふとも言へますが……）。&lt;/p&gt;

&lt;h4&gt;コミュニケーション＝精神的交通&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;
そんな皆さんの喧々囂々をいつも眺めてゐる深草君ですが、まぁこの手の話になると質問だけといふわけにも行かないやうで、「工業製品のデザインなどを見ることも、表現（精神的形式の物質的コピー）による精神的交通といふ意味でコミュニケーションだ」などと言ひ出します。&lt;/p&gt;

&lt;h4&gt;ケロヨン&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;
ぬいぐるみのケロヨンが登場します。或る人はケロヨンが大好きで、ケロヨンを抱きながらケロヨンと「会話」を行なうことが出来ます。彼（彼女）はケロヨンと「コミュニケーション」してゐると言へるでせうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
崎山とdualityさんはコミュニケーションが成立してゐると考へます。崎山さんは当事者主義なので、本人が「コミュニケーション」してゐると言ひ張れ
ば、コミュニケーションが成立してゐることになります。dualityさんの場合は物理的な相互作用の成立＝コミュニケーションなので、本人に聴くまでも
なく、第三者的にこれがコミュニケーションであると立証もできます。、&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
どんさいさんと深草は成立してゐないと答へます。といふのもケロヨンは人工物であり、精神を持った存在ではないからです。どんさいさんはこれを「ケロヨンは『人間』ではないからだ」と表現しますが、結局のところ、何が人間であり、何が人間でないかは曖昧で、これは独断的な印象しか与へない発言です（もちろんケロヨンであれば、多くの人から「人間ではない」といふ同意を引き出すことができるでせうが）。一方で、彼（彼女）はケロヨンでなく、ケロヨンの製作者との間でコミュニケーションしてゐるとは主張します。&lt;/p&gt;

&lt;h4&gt;当事者主義&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;
人工物を通して、その製作者の認識を鑑賞者が受取ってゐることを深草は主張します。目前のペットボトルのデザインを通してデザイナの認識を我々は受取ってゐるのだ、と主張します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;
崎山&lt;/strong&gt;「このペットボトルのデザイナが誰かなんてことには大抵の人が留意しないし、ましてやその人物とコミュニケーションが成立してゐるなんて誰も思はないだらう」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;
深草&lt;/strong&gt;「デザイナが誰かなどといふことは問題ではない。まづペットボトルをペットボトルとして認識してゐること自体が製作者の認識を受取ってゐることになる
のだし、それを『コミュニケーション』といふ名称で呼ぶことに賛否があるとしても、学問上さういふカテゴリを設定して現象に適用することには何の問題もな
いと思ふが」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;
崎山&lt;/strong&gt;「だが、当事者が『私はこれの製作者とコミュニケーションなどしてゐない』と主張してゐるのにも関はらず、そのやうに『コミュニケーションしてゐる』と判断を下すのは独断的ではないのか」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;
深草&lt;/strong&gt;「もちろん独断的だ。だが学問とは得てして独断的なものだらう。貴方のやうな当事者主義では何でもかんでも当事者に任せれば万事解決といふことにな
る。風邪をひいても本人が否定すれば風邪ではないことになるし、凶悪犯でも本人が無罪を主張すれば、無罪といふことになるだらう」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
……といふのは大分脚色が入ってゐますが、要するに深草は客観的・第三者的なコミュニケーションの基準が存在し得ると考へてゐるのに対し、崎山さんはコミュニケーションは当事者の主観的基準でしか成り立たないと考へてゐるやうです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
※（余談）まー何と言ひますか、三浦つとむの言説を墨守して独断的になる深草も公式主義的・教条主義的・全体主義的な印象で「左翼っぽい」ですが、一方で当事者主義を主張する崎山さんも弱者利権にたかる人々が透けて見えるやうで「左翼っぽい」ですね。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
議論は次回に流れて行きます。次のテーマは&lt;strong&gt;「言語」&lt;/strong&gt;です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
【約2200字】&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>哲学道場高円寺</dc:subject>

<dc:creator>深草周</dc:creator>
<dc:date>2007-06-24T23:55:51+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/06/2007_1263.html">
<title>五月の哲学道場(2007)</title>
<link>http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/06/2007_1263.html</link>
<description>五月に各地で行なはれた討論会について書く。ニコニコ動画の見過ぎなど自己管理の甘さが祟って報告しようと思ってゐることが溜まってしまった。よって今回は各地で話されたことに対し簡単にコメントを付すだけにしておく。余裕があれば後から書き足したりコメントをつけるかもしれない（各回で使用されたレジュメへもアップロード次第リンクする）。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;五月に各地で行なはれた討論会について書く。ニコニコ動画の見過ぎなど自己管理の甘さが祟って報告しようと思ってゐることが溜まってしまった。よって今回は各地で話されたことに対し簡単にコメントを付すだけにしておく。余裕があれば後から書き足したりコメントをつけるかもしれない（各回で使用されたレジュメへもアップロード次第リンクする）。&lt;/p&gt;&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;第02回名哲&lt;strong&gt;「マスターアーギュメント」&lt;/strong&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;日時：5月19日（土）夜&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;場所：名古屋駅付近の飲食店&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;参加者：以下の5名。Iさん・崎山ワタルさん・深草・ゆーいんぐさん・横井直高さん（五十音順）。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;発表担当：深草&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;バークリのMaster Argumentについて深草が発表。バークリの議論は心から独立した実在は無いと主張するもので、唯物論者に反論するために作られたものである。歴史的には反論済みとされてゐる議論ではあるが、バークリの議論を別様に解釈することで擁護できるといふ内容だった。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;Master Argumentは崎山流「共同主観性」論と同型であると予想して発表したが、やはり賛成して来て予想通りであった。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;第04回浜哲&lt;strong&gt;「現代数学における数概念」&lt;/strong&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;日時：5月20日（土）午後&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;場所：可美公園総合センター内会議室&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;参加者：以下の4名。崎山ワタルさん・深草・横井直高さん・Yさん（五十音順）。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;発表担当：横井直高さん&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;カントールの素朴集合論の紹介。対角線論法について横井さんに解説してもらったが、崎山ワタルと深草によって反論が行なはれた（ただし両者とも数学はど素人だから反論になってゐない可能性は充分ある）。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;結局のところ、横井さんはこの発表でどんな立場に賛成するのかよく分からなかった。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;第27回哲高&lt;strong&gt;「空間」&lt;/strong&gt;（5月26日、六名参加）
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;日時：5月26日（土）午後&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;場所：高円寺北区区民集会所&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;参加者：以下の6名。esさん・崎山ワタルさん・dualityさん・トモさん・どんさいさん・深草（五十音順）。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;発表担当：dualityさん・esさん&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;dualityさんから物理学、或いは数学における空間の捉へ方について講義してもらふ。興味深いが、理系的知識に疎い私などとは知識の落差があり過ぎて残念ながら議論にならない。討論会で扱ふなら、そのやうな空間概念が現実の空間に適用可能かどうかを問題にすべきだと感じた（尤も「現実の空間」などを立てるかどうかも重要な論点ではあらうが）。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;後半、esさんに芸術的空間について発表して頂いた。初参加で発表して来る度胸を大いに評価したい。また、内容は美学に関するものだが、思ったより論理的で論じ甲斐のあるものだった。私も表現について考へる者として真面目にやらなければと反省させられた。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;第14回京哲&lt;strong&gt;「ラッセルのパラドックス」&lt;/strong&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;日時：5月27日（日）午後&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;場所：京大哲学研究会部室（京都大学吉田キャンパス構内）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;参加者：以下の5名。崎山ワタルさん・hiroponさん・深草・Mさん・めるろ～さん（五十音順）。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;発表担当：hiroponさん&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;



&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;唯物論でもなく、観念論でもない第三の立場・中性一元論について解説してもらふ。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;中性一元論は一種の原子論のやうだが、結局その原子（論理的原子）が何なのかよく分からなかった。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;</content:encoded>


<dc:subject>京都哲学道場</dc:subject>
<dc:subject>名古屋哲学道場</dc:subject>
<dc:subject>哲学道場高円寺</dc:subject>
<dc:subject>浜松哲学道場</dc:subject>

<dc:creator>深草周</dc:creator>
<dc:date>2007-06-03T16:44:14+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/05/5_b395.html">
<title>今日の雑感5: 共同主観性論について迷走</title>
<link>http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/05/5_b395.html</link>
<description>佐佐木晃彦氏の論から「師匠における《関係》とは何ぞや？」といふことが気になり始めて、師匠で《関係》と言へば「関係意味論」だと思ひ至り、そこからソシュール的な構成的関係（シーニュ間の相補的関係）と師匠が言ふ《過程的関係》（私の場合、特に《像》の理論におけるそれが念頭にあるけれども）との対比ができないか、と考へたりしてゐる。目的としては過程説の側から構成説を転覆させたいわけである。が、これは私には重過...</description>
<content:encoded>&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;佐佐木晃彦氏の論から「師匠における《関係》とは何ぞや？」といふことが気になり始めて、師匠で《関係》と言へば「関係意味論」だと思ひ至り、そこからソシュール的な構成的関係（シーニュ間の相補的関係）と師匠が言ふ《過程的関係》（私の場合、特に《像》の理論におけるそれが念頭にあるけれども）との対比ができないか、と考へたりしてゐる。目的としては過程説の側から構成説を転覆させたいわけである。が、これは私には重過ぎる石かもしれないし、問題として成立するとしても「構成説vs.過程説」なんて分かり易い構図には収まらないであらう（構成説にもそれなりの正しさがあるのだから、それを取り込む形で批判しなければならない――といふか一般に批判はそのやうにあるべきだらう）。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;廣松の支持者である崎山ワタル氏などは「共同主観性に対する共同主観性」なんてものを持ち出して来るが、そのやうなメタ共同主観性を認めるのであれば無限後退に陥らざるを得ない。といふのも、私などが共同主観性一元論に反対して、「我々の認識はすべて共同主観性によって決定されてゐるわけではない。共同主観性を超えて認識を規制する原理Ａ（例へば物理法則など）があるはずだ」と主張しても、崎山氏は「原理Ａも共同主観性の一種に過ぎない」と切り替へしてくるからである。私がそこで原理Ｂを出しても崎山氏はすべて共同主観性に還元して来るわけである。つまりどんな原理原則も人間の認識の中にあるから、共同主観性に還元可能だといふ論なのだが、ここでいふ「人間の認識」とはこの問題について論じてゐる私たち論者の認識まで含まれてゐる。論者の認識は議論内容に対してメタの関係にあるわけで、それに対して適用可能な共同主観性は言はばメタ共同主観性であり、これは元の議論内容に含まれるベタ共同主観性とは区別されるべきものである。このやうに見て来ると、崎山ワタル氏の論法は無限後退を利用したものであり、共同主観性を幾らでもメタ化できるといふ前提に基づい
て反論してゐることが分かるはずだ（これはバークリの「マスターアーギュメント」に似てゐる）。&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;しかし、そもそも廣松によれば共同主観性は協働作業（『世界の共同主観的存在構造』では餅つきの例が挙げられてゐる）の結果として形成されるものであるはずで、世間話などの比較的ベタなレベルでは共同主観性も協働作業によって形成されてゐるとも言へようが、しかし、ひたすらメタ化して行く哲学談義の現場では協働作業から遊離した「共同主観性」が簡単に出現することになる。例へば「Ａの主張は共同主観性によって決定されてゐると考へるＢの認識は共同主観性によって決定されてゐると考へるＡの認識は……」などと幾らでもメタ化させることはできるが、これは言葉の形式上だけでのことであって、一定以上メタ化してしまふと最早未だかつて誰も議論したことのない領域に入ってしまふ（といふのもこのメタ化は無限に続けることができるからだ）。そして議論といふ協働作業がなされなければ共同主観性が形成されるわけもないのだから、共同主観性を無限にメタ化させることによって共同主観性還元主義の論を張ることには無理が
あるだらう。&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;宮田和保氏の『意識と言語』を再度引っ繰り返してみた。pp.220-231に渡って規範論の視点から廣松批判が展開されてゐるが、マルクスなどをまともに読んでゐない私には難解である。取り合へず、字面を辿ってみると、どうも次のやうなことらしい。「労働者と資本家との意志の対立（矛盾）の解決として規範が形成されるのであって、だからこそ労働者の資本家に対する反抗とそれに対する制裁がある。しかし、廣松の論（物象化論）では物象化と規範が一緒くたにされてをり、労働者の反抗する原因が説明できない」。つまり、廣松の論だとなぜ労働者が資本家に対立して運動するのか、その歴史の原動力みたいなものが説明し切れないといふことらしい。労働者と資本家とが必然的に対立するといふ構図に立てば恐らく正しい批判なのだと思ふが、私はマルクスやマルクス主義に
明るくないため、これに関してはまだ何とも言へない。また、「対立」「矛盾」といった語の内容もつかめてゐるとはとても言へない。&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;ただ、廣松の論が共同主観性の起源を「餅つき」で説明できたとしても、一旦できあがった共同主観性がなぜ変化するかについては全然説明されてゐない（私はその説明を見たことがないし、私よりは廣松に詳しいであらう崎山氏からもそんな議論は聞けなかった）。形成済みの共同主観性がなぜ変化するのか――やはりこれは構成説のみでは説明し切れないだらう、いよいよ過程説の出番なのか？&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;――しかし、それで一番最初に思い付いた歴史的変化の原因がどうにも観念論的である（別に観念論的だから必ずしも不味いといふことはないが、ここでは歴史の原動力を考へようといふ究極的な場面なのだから師匠の支持者としてはイマイチな論になる）。私は先ほどメタ過ぎる「共同主観性」は協働作業から遊離して空語になってしまふと述べたが、この批判から真っ先に思ひつけるのは或る高次のメタ主観が自分よりベタな共同主観性を変革するといふ構図である。しかし、或る時代を変革するのがその時代の最もメタな主観であるとは――それが支配者であるにせよ、哲学者や思想家であるにせよ、はたまた「ナントカ精神」であるにせよ――何とも観念論まっしぐらな考へ方である。手詰まり。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;p&gt;
【約2200字】&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>深草周</dc:creator>
<dc:date>2007-05-06T00:58:54+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/04/13_d795.html">
<title>第13回京都哲学道場「幸福の哲学」</title>
<link>http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/04/13_d795.html</link>
<description>京都府京都市で開催された哲学討論会（第13回）の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。 日時：4月22日（土）午後 場所：京大構内「京大哲学研究会」部室 参加者：以下の6名。itikunさん・崎山ワタルさん・hiroponさん・深草周・Fさん・めるろ～さん（五十音順）。 テーマ：「幸福の哲学」（発表担当：itikunさん） 次回日程・御問合せなどは哲学道場公式サイトから御覧下さい...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;京都府京都市で開催された哲学討論会（第13回）の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。&lt;/p&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;日時：4月22日（土）午後&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;場所：京大構内「京大哲学研究会」部室&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;参加者：以下の6名。itikunさん・崎山ワタルさん・hiroponさん・深草周・Fさん・めるろ～さん（五十音順）。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;テーマ：「幸福の哲学」（発表担当：itikunさん）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;次回日程・御問合せなどは&lt;a href=&quot;http://tetsugakudojo.web.fc2.com/&quot;&gt;哲学道場公式サイト&lt;/a&gt;から御覧下さい。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;&lt;h4&gt;発表&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;itikunさんに「幸福」について論じて頂きました。彼の図式によると、人間には「好悪気分」なる状態が想定でき、この好悪気分を引き起こした外的な状況を変革することによって不快を失くし、ヨリ快なる状況を作り出してゐるといふことでした。なほitikunさんの見方では不快と快とは一つの直線上にあるものとしてイメージされてゐるやうです（つまり、快でもなく、不快でもない状態は存在しません）。&lt;/p&gt;

&lt;h4&gt;批判点&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;このやうな図式について次の諸点が批判されました。&lt;/p&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;この図式に沿って快（幸福）が実現されることもあるが、さうでない場合もある。即ち、自分の思ひ通りに行かない場合もある&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;幸せな状況は必ずしも意図的に作り出されるとは限らない。現在の生活に全く満足してゐても、偶然宝くじに当たって幸せを感じることもある。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;自分を取り巻く状況に対して心が快不快を感じることと、それに対して身体が行動することとの間に因果関係はあると言へるのか？（この論点は意思論や心脳問題にずれ込むため保留になりました）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;そもそもitikunのやうな立場（先進国の学生）だからこそこんな図式が主張できるのではないか？&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;h4&gt;政治主義とレヴィナス&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;itikunの発表に対する議論が一通りなされた後は、「いかなる主張も政治的立場から逃れられない」とする議論から、なぜかレヴィナス批判が侃々諤々議論されました。「もし今ここのコタツにレヴィナスがやって来て昆布茶を求めたらどうするのか」といった実践的問題が同時に三ヶ所（つまり、六人ゐたから二人ずつ）で議論され、結局イスラエル人とカラオケ大会を開催することが決定しました（詳しい脈絡は割愛しますが、本当にさういった議論でした）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;次回はhiroponさんが「ラッセルのパラドックス」、略して「ラッパ」について発表して下さるとのこと、期待してゐます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;【約1000字】&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>深草周</dc:creator>
<dc:date>2007-04-30T23:34:46+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/04/post_2e60.html">
<title>自己批判</title>
<link>http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/04/post_2e60.html</link>
<description>有効な批判は自己批判でなければならない。 といふのも言葉はかならずしも認識を完全に表現するわけではなく、或る主張に対する批判はその主張を行なふ当人自らが行なふのが最も誤解が少なく、正当な批判になるであらうから。 或いは自己批判しない人々に対しては何を言っても無駄であり、その人々の考へ方を変へさせることはできない。つまり、他人からの批判が無効になるわけで、自己批判を介さなければ如何なる「批判」も有効...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;有効な批判は自己批判でなければならない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;といふのも言葉はかならずしも認識を完全に表現するわけではなく、或る主張に対する批判はその主張を行なふ当人自らが行なふのが最も誤解が少なく、正当な批判になるであらうから。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;或いは自己批判しない人々に対しては何を言っても無駄であり、その人々の考へ方を変へさせることはできない。つまり、他人からの批判が無効になるわけで、自己批判を介さなければ如何なる「批判」も有効なものとはなり得ない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;これは必ずしも世の中に自己批判的な人間とさうでない人間がゐるといふことを意味しない。他人から多くのことを「批判」されても、大抵はごく僅かな部分しか受け入れることができないといふ意味である。といふのも、他人からの批判は誤解によって的外れになってゐる場合があるし、さうでなくとも、自分にとってそれを「的外れ」と見做せる場合にはさう見做した方が気持ちがいい場合が多いからだらう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;【約400字】&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>深草周</dc:creator>
<dc:date>2007-04-14T21:41:24+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/04/26_0117.html">
<title>第26回哲学道場高円寺「幸福」</title>
<link>http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/04/26_0117.html</link>
<description>東京都杉並区で開催された哲学討論会（第26回）の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。 日時：4月7日（土）午後 場所：高円寺北区区民集会所 参加者：以下の6名。・崎山ワタル・三四郎さん・dualityさん・どんさいさん・深草周・Hさん（五十音順）。 テーマ：「幸福」（発表担当：三四郎さん及び崎山） 次回日程・御問合せなどは哲学道場公式サイトからご覧下さい。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;東京都杉並区で開催された哲学討論会（第26回）の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。&lt;/p&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;日時：4月7日（土）午後&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;場所：高円寺北区区民集会所&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;参加者：以下の6名。・崎山ワタル・三四郎さん・dualityさん・どんさいさん・深草周・Hさん（五十音順）。&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;テーマ：「幸福」（発表担当：三四郎さん及び崎山）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;次回日程・御問合せなどは&lt;a href=&quot;http://tetsugakudojo.web.fc2.com/&quot;&gt;哲学道場公式サイト&lt;/a&gt;からご覧下さい。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;h4&gt;発表&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;まづ崎山さんのサブ発表の内容を深草は次のやうに受け取りました。&lt;/p&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;問題には「決める」問題と「決まる」問題とがあり、問題と解答とが一対一対応をなしてゐるものが「決まる」問題である&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;公共のことについて幾つかの選択肢が出てきた場合、それぞれの選択肢を採ったときに各自がどのくらゐ&lt;strong&gt;Happy&lt;/strong&gt;になるかをアンケートして数値化するとしよう。このとき、どの政策を採るべきかを計算する基準が複数ある（フルビッツ基準・ミニマックス基準など）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;しかし、もちろん特定の基準に沿へば解は「決まる」が、どの基準に従ふかは「決まる」問題ではなく、「決める」しかない問題である（これを&lt;strong&gt;「決まる」問題にするためにメタ基準を持ち出せば無限後退に陥る&lt;/strong&gt;、と深草は理解しました）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;また、或る社会政策が特定の社会の構成員のハッピー感を増大し、しかも他の構成員のハッピー感を下げないのであれば、その社会政策を採用するといふ考へ方（パレート改善）があるが、特定の構成員にだけ影響を与へるやうな（つまり他の構成員から全く独立した）理想的な選択肢は現実にはほとんどない&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;以上から、第三者的な「最大化」「最適」といふ評価の意味は薄く、崎山としては当事者にとってハッピーを達成するための選択肢が開かれてゐるかどうかが問題になる&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;ハッピー感は量的にではなくて、その変化率において捉へるべきである&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;p&gt;要するに、次から次へとオプション商品が登場するやうな社会が理想的であるといふことのやうです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;次に、三四郎さんのメイン発表の論点は次の通りです。&lt;/p&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;&lt;strong&gt;幸福と効用との区別&lt;/strong&gt;：幸福は安定的なものであり、効用は一時的なものである。将来にわたって期待される諸々の効用から、リスクの分を差し引いたもの（現在割引価値）が現在の幸福であると定義する&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;マズローの欲求五段階説に見られるやうに、同じ欲求に対してであっても、得られる効用は人それぞれであることを前提する&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;strong&gt;序数的幸福と基数的幸福&lt;/strong&gt;：幸福の測定は幸福同士の順序付けに等しい。そこで幸福が序数的なものか基数的なものかが問題となる。序数的である場合、或る二者間に順序はつけられるが、量的比較はできない。一方、基数的である場合、量的比較が可能でどの二者間についても順序をつけることができる（完備性がある）。これは個人の幸福について言へることだが、社会の幸福もこれに依存する&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;h4&gt;飛び込み発表&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;二つの発表（＋議論）が終はったところで、どんさいさんから「社会生活」に関するペーパーが配られました。その中に「自己実現」といふ言葉があり、深草は以前からこの言葉の意味（どんさいさんが使ふ意味のみならず、一般に通用してゐる意味）がよく分からなかったので、その意味を尋ねました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかし、どうにも用語が素直でなく（これは飽くまで深草の印象ですが）、問答の末に以下の意味で「自己実現」を使ってゐるらしいと了解しました。&lt;/p&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;モノについては可能性が現実になるといふ変化があり、生物については「新陳代謝」があり、人間については目的や思ひ（表象）の現実化があるが、このうち、「新陳代謝」と目的や思ひなどの実現を特にまとめて「自己実現」と呼ぶ&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;p&gt;まづ人間の目的が現実化することだけを「自己実現」と呼ぶのであれば了解できますし、変化一般を「自己実現」と呼ぶのであればこれも（隨分奇妙な用語法だといふ気がしますが）一応了解できます。しかし、新陳代謝のやうなものについて断定的に人間の目的などと同じ用語で括り、その上それを何故かモノの変化から締め出すといふのは何故なのかサッパリ深草には分かりませんでした（どうも同じ言葉で括ることに意味があるらしいのですが、それなら変化一般のことを括って「自己実現」とでも呼ばないのは何故でせうか）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;といふのも、植物の新陳代謝などはそれが単なる可能性の実現なのか、それとも植物が目的を持ってゐてそれが実現されるのかは必ずしも自明ではないからです（可能性や目的などと新陳代謝とは全く別物であるとか、可能性と目的性との中間的なものなのだとか言ふ主張であるならば、なほのこと説明が要るでせう）。或いは植物も「自己実現」すると言ふのであれば、植物の「自己」が如何なるものかを説明して頂きたいと思ひました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;どんさいさんによれば、この「自己実現」はすべての人間が常に行なってゐることなのださうです。そして「自己実現」の評価は評価者の持つ評価系によって決まるのださうです。また、評価系自体も評価対象になるので、社会的に「評価系の評価系」といったものも形成されてゐるだらうといふことでした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;これに対し、崎山さんは「評価系についての記述としては納得できるが、しかし、現実の行動指針としては役に立つものではない」と批判し、また、深草は「ミニマックス基準などの計量的基準などと同様、これらの記述に伴ふ判断からは『この評価系よりもあの評価系の方が絶対的に優れてゐる』といった価値的判断は出て来ない」と評しました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;――やはり哲学道場の議論を制する猛者の出現を期待します（泣）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;【約2300字】&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>哲学道場高円寺</dc:subject>

<dc:creator>深草周</dc:creator>
<dc:date>2007-04-14T15:19:00+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/04/post_b61d.html">
<title>第３回浜松哲学道場「アキレスと亀」</title>
<link>http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/04/post_b61d.html</link>
<description>静岡県浜松市で開催された哲学討論会（第3回）の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。 日時：3月25日（日）午後場所：可美公園総合センター内会議室 参加者：以下の5名。アムロさん・崎山ワタル・深草周・横井直高さん・Yさん（五十音順）。 テーマ：「アキレスと亀」（発表担当：横井さん） 次回日程・御問合せなどは哲学道場公式サイトからお願ひ致します。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;静岡県浜松市で開催された哲学討論会（第3回）の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。&lt;/p&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;日時：3月25日（日）午後&lt;br /&gt;場所：可美公園総合センター内会議室&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;参加者：以下の5名。アムロさん・崎山ワタル・深草周・横井直高さん・Yさん（五十音順）。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;テーマ：「アキレスと亀」（発表担当：横井さん）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;次回日程・御問合せなどは&lt;a href=&quot;http://tetsugakudojo.web.fc2.com/&quot;&gt;哲学道場公式サイト&lt;/a&gt;からお願ひ致します。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;&lt;h4&gt;発表&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;
今回はレジュメがないといふことで、会議室に備へ付けのホワイトボードを使って横井さんに発表して頂きました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
足の速いアキレスがのろまな亀とハンデをつけて（アキレスが亀を後ろから追ひかける格好で）かけっこすると、亀が現在通過中の或る地点にアキレスが到着す
るまでに必ず一定の時間を要します。一方、亀の方ははいくら足が遅いといってもその一定時間の間に必ず現在の地点から少しであっても進んでしまふので、
「アキレスは亀には追ひつけない」とするのが所謂「ゼノンのパラドックス」です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
このやうな想定の元に、アキレスの速さ、亀の速さ、ハンデの距離を適切に与へて実際に計算してみると、アキレスは亀にどんどん近づいては行くが、計算自体
を終らせることはできないことが分かります。即ち、ハンデを1で両者の速度が2:1だとすると、1+1/2+1/4+1/8+1/16+...といふ風に
アキレスの位置を出す計算は無限に続きます。これを2に収束するものとして、全体として2と等しい（対応づけられる）ものとして扱ふことに取り決めたのが
現代数学の立場であるといふことです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
横井さんの発表はアキレスと亀との差が縮小して行くことと、遠近法において眺めが遠くにあればあるほど小さくなることを重ね合はせます。横井さんは目前に
ある二つの点と遠くに見える二つの点が視覚上同じやうに見えて区別できないことに他者性が現はれて来ると言ひます（正直言って深草にはゼノンの話との論理
的な関連性が見出せませんでした）。&lt;/p&gt;

&lt;h4&gt;これは矛盾なのか？&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;
まづ、「これは矛盾ではない」との指摘がありました。尤も今回はほぼ全員がこの「パラドックス」について矛盾ではないと考へてゐたやうです。即ち、アキレ
スと亀との競争を考へるのに無限のステップがゐること（空間が無限に分割可能であること）と、実際にアキレスと亀との競争が無限のステップを踏むかどうか
は無関係です（無関係といふのは踏んでゐないといふ主張ではありません）。両者に区別をつけて解決する限り、これは矛盾とは言へません。&lt;/p&gt;

&lt;h4&gt;単位の問題&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;
深草は「本質的な問題はもっと別にある」と述べ、「アキレスと亀の問題を解決するやり方には二通りある」と言ひます。曰く「いづれの解決方法も何らかの
『単位』を導入して解決するものである。一つは存在の側に単位を導入する原子論で、もう一つは認識の側に単位（モノサシ）を導入する考へ方である」。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
即ち、或る空間的距離について考へるとき、空間そのものが単位的である（距離の最小単位が存在する）と考へるか、それとも距離そのものは切れ目のない（し
かし、どこからでも幾らでも分割できる）ものだが、私たちが距離を認識する際には分割して捉へざるを得ないのか、いづれかであるといふことです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
前者の主張は原子論にあたるものであり、この前提に立てば私たちは距離を「ありのまま」に捉へることができると言へます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
一方、後者の立場を前提に採ると、切れ目のない距離自体を私たちは捉へ切れないことになります。この立場では、私たちは距離に対して任意の間隔を単位とし
て設定します。この単位となる幅はどのやうにでも決定できますから、与へられた距離全体を一つの単位として設定することも可能なはずです。もし後者の立場
をとりつつも、切れ目のない距離全体（即ち、アキレスが亀に追いつくまでの距離全体）を「ありのまま」に捉へようとすれば、距離全体といふものを一つの単
位（内部に切れ目を持たないもの）と見た上で、それを記述しなければなりません。この立場を維持しつつ、この記述をすることは困難ですが、神秘主義に陥ら
ずにこれを行なふことがこの「アキレスと亀」から引き出せる問題だと深草は言ひます。&lt;/p&gt;

&lt;h4&gt;一者たる距離全体とは？&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;
また、ここで後者の立場において一単位と見られた距離全体（実際の議論では「距離」ではなく「世界」と言ってかなり飛躍した議論をしてゐましたが）とは如何なるものになるかが問題です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;
横井さんはパルメニデスの弟子であるゼノンの主張が念頭にあって、深草が言ふところの「一単位としての距離全体」を唯一不動の「一者」であると捉へたやう
ですが、話し手の深草は絶えず運動し、生成変化発展消滅する世界観の立場からこの「全体」を発想してゐるわけで、ここはまた議論が分かれるところとなりさ
うです（私としては自分が言葉に踊らされてゐないかどうかを恐れます）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;【約2000字】&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>浜松哲学道場</dc:subject>

<dc:creator>深草周</dc:creator>
<dc:date>2007-04-06T05:32:57+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/03/25_8eff.html">
<title>第25回哲学道場高円寺「夢」</title>
<link>http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/03/25_8eff.html</link>
<description>東京都杉並区で開催された哲学討論会（第25回）の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。 日時：3月24日（土）午後 場所：高円寺北区区民集会所 参加者：以下の6名。アムロさん・崎山ワタル・三四郎さん・どんさいさん・ノシさん・深草周（五十音順）。 テーマ：「夢」（発表担当：深草） 次回日程・御問合せなどは哲学道場公式サイトからお願ひ致します。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;
東京都杉並区で開催された哲学討論会（第25回）の報告です。日時・参加者・次回の予定などは以下の通りです。&lt;/p&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;日時：3月24日（土）午後&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;場所：高円寺北区区民集会所&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;参加者：以下の6名。アムロさん・崎山ワタル・三四郎さん・どんさいさん・ノシさん・深草周（五十音順）。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;テーマ：「夢」（発表担当：深草）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;次回日程・御問合せなどは&lt;a href=&quot;http://tetsugakudojo.web.fc2.com/&quot;&gt;哲学道場公式サイト&lt;/a&gt;からお願ひ致します。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;&lt;h4&gt;発表&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;まづサブレジュメ担当の崎山さんから夢に関する諸学説の紹介があり、次にメインレジュメ担当の深草が「夢と現実との絶対的区別」に関するレジュメを発表しました（これらのレジュメはこちらの&lt;a href=&quot;http://tetsugakudojo.web.fc2.com/reports_Koenji2.html&quot;&gt;報告集&lt;/a&gt;からリンクされてゐます）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;深草の発表内容は、夢と現実とを「この私」が区別する体験的指標として五つほどを羅列し、各々について否定するかもしくは指標としての有効性を疑問視するカタチで「夢と現実とは絶対的には区別ができない。即ち、これが現実であるといふ確証はないし、またこの世界から目覚めないといふ保証もない」といふ結論を導くものです。&lt;/p&gt;

&lt;h4&gt;批判点&lt;/h4&gt;

&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;提出された論点「夢は白黒／現実はカラー」は視覚的な側面に限った命題なので他の感覚に訴へる夢もあるといふ記述が欠けてゐるとの指摘がありました。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;また、「全色盲の人の割合が多いコミュニティ」といふ具体例について、「出す意味がよく分からない、もっと素直な例にすべき」との指摘がありました。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;「夢とか現実とか言ふのは誰の夢・誰の現実であるのか」といふ疑問が提出されました。深草は「『私』である。といっても特定の一個人の話ではなくて、類としての『私』のことだ」と応へましたが、この点にも配慮が薄かったと言へます。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;ノシさんからは「そもそも絶対的な指標を考へること自体が空想的ではないのか？　そもそも存在しないものを立てて議論を始めてゐるやうに見える」、また崎山さんからは「藁人形論法ではないか」との批判がありました。なほ「藁人形論法」とは相手の主張を自分に都合の良いやうに歪めて批判する論じ方のことを指します。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;h4&gt;どの夢が「現実」としての地位を獲得するのか&lt;/h4&gt;

&lt;p&gt;遅れて入って来たアムロさんは「自分は一貫してゐるものを現実として他の夢から区別する」と述べます。ここから、実際に夢と現実とを区別してゐる人はどのやうに区別してゐるのか、夢を現実と思ひ込んだり、現実を夢だと思ってゐることはないか、といふ事実の話に入って行きました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;例へばキリスト者の人々は信心深いとは思はれない人々でも当然のやうに「神の国における救ひ」を信じてゐると崎山さんは言ひます（実際そのやうな人々に出会ったといふことでした）。つまり、その人々にしてみれば、価値付けとしては所謂「無宗教」な人々が考へるところの「現実」よりも「夢」の方が深刻なものとなってゐるわけです。実際、キリスト教に限らず、そのやうな信仰を持ってゐる人々は実際少なくはないでせう。してみれば、「夢と現実とは区別できない」といふ主張は言はば宗教的な「彼岸」の主張に与するものだと言へさうです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私としては今回の発表は「論点分割」の練習の心積もりだったのですが、やはり各論点に不備があり、また、さらに細かく綿密に分割できることが実感されたので、有意義であったと思ってゐます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;【約1300字】&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>哲学道場高円寺</dc:subject>

<dc:creator>深草周</dc:creator>
<dc:date>2007-03-31T08:10:54+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/03/4__bbed.html">
<title>今日の雑感4: 祝・文庫化／三浦理論への疑問</title>
<link>http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/03/4__bbed.html</link>
<description>既に周知のことやもしれぬが、言語過程説の基礎文献『國語學原論』が文庫化されて復刊した！　めでたいことである。ついでに（といっては失礼ですが）「文法の鬼」と呼ばれたかの碩學の主要著作も文庫化してくれると嬉しいのだが。...</description>
<content:encoded>&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;既に周知のことやもしれぬが、&lt;a href=&quot;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E6%9E%9D%E6%96%87%E6%B3%95&quot;&gt;言語過程説&lt;/a&gt;の基礎文献『&lt;a href=&quot;http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E5%AD%A6%E5%8E%9F%E8%AB%96-%E4%B8%8A-1-%E6%99%82%E6%9E%9D-%E8%AA%A0%E8%A8%98/dp/4003815017&quot;&gt;國語學原論&lt;/a&gt;』が文庫化されて復刊した！　めでたいことである。ついでに（といっては失礼ですが）「文法の鬼」と呼ばれたかの碩學の主要著作も文庫化してくれると嬉しいのだが。&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;積読になってゐる國語學関係の本を読まねば……。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;「&lt;a href=&quot;http://galo2.hp.infoseek.co.jp/index.html&quot;&gt;探求&lt;/a&gt;」の佐佐木晃彦氏が私の「関連リンク集」を利用してくれたとのこと、恐縮の至りです。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;
&lt;p&gt;それにしても、「三浦つとむを信仰してゐる」とか何とか言ってゐる割に分析哲学的な議論が好きな私としてはやっぱり＜関係＝本質＞は分からない……（引用は&lt;a href=&quot;http://galo2.hp.infoseek.co.jp/reader6.html&quot;&gt;【真理は全体である（ヘーゲル）　―　読者の方からの感想に寄せて６　―】&lt;/a&gt;から）。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;
「関係」概念を駆使するのは、英米の経験論者もヘーゲリアンも同じなんですが、彼らは、自分たちと同じレベルでヘーゲルやマルクスの＜関係＞を見るから、ヘーゲルやマルクスがどういう位相において＜関係＝本質＞としているのか理解できない。だからヘーゲルやマルクスを、「まったくわけのわからない事を言っている」「形而上学だ！」と非難するわけです。
&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;
さう、ヘーゲルの言ってゐることなどまさに神秘思想にしか見えないといふのが、正直な感想になる（その神秘思想を読んでから書き殴った文章も後から読むと我ながら理解不能――まあこれは私の理解が浅薄だっただけなんだけれども）。&lt;/p&gt;

&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;不勉強のせゐもあってか、佐佐木氏の述べてゐる「止揚」概念は私にはよく分からない。正しく抽象すれば正しく展開できるとのことらしいのだが、「正しく」とは一体どんな種類の権利付けで正しく何だらうか？　（これは「正しいわけがない」と言ひたいわけではなく、純粋に疑問だといふことである。以下も同様）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;&lt;p&gt;以下、孫引きする（&lt;a href=&quot;http://galo2.hp.infoseek.co.jp/reader6.html&quot;&gt;【真理は全体である（ヘーゲル）　―　読者の方からの感想に寄せて６　―】&lt;/a&gt;内にある佐佐木氏から秀氏へのコメントの引用部分）。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;だからヘーゲリアン三浦さんの立場というのは、
&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;機能　→　実体　→　関係&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;という機能実体の＜止揚＞において＜関係＞を定立するものだから、機能主義批判と即物実体論批判として成立しています。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;これを読んで自分の中でまとまりがついてゐない問題がまた浮上して来た。比喩的にではあるが、述べておいてみようかしら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まづ現象を自分の目の前に拡がるスクリーンに映じた像に喩へておかう。現象の「奥」、即ちスクリーンの向かう側に回ることはできないから、どういふカラクリで映像が映り、運動してゐるのかを直接にみることはできない。そこで師匠の本を読んでみると、「『奥』はかくかくしかじかの構造になってゐて、このやうな過程に基づいてこれこれの現象は起こってゐる」と説明されてゐる。しかも「『奥』が直接見えないから分からないと主張するのはカント的不可知論に陥ってゐるものと言はねばならない」ッてなことまで書いてある（やうに私には見える）。&lt;/p&gt;
&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;では師匠の言ってゐることはこの素朴な受け取り方の通り、「奥」についての記述なのかと言へば、非常に疑問である。師匠も人間なわけだから、現象しか見えないのは私と同様で、師匠の説も現象を根拠に推論されたものに他ならないと考へることができる。このやうに考へてしまふと、師匠の説明からイメージされる「奥へ奥へと入り込んで行く」感じが逆転する。つまり、素朴には「奥」の方向へ入り込む記述が、上記の発想では逆に現象から「手前」の方向への推論に見えてしまふことになる。即ち、客観的記述に見えたものが、主観的推論に逆転する上に、客観的記述として深ければ深いほど主観的推論としては（それだけ推論の連鎖が長くなり、しかも必然的推論ではないから）危うくなるやうに見える。一体、この危うさをどうやって解消すればいいのだらうか？　（ひょっとすると「実験」で解消できるかと思ってゐたが、佐佐木氏は実証できないと言ってゐるわけだから違ふのだらうか。それとも実は解消などする必要はないのか？）
&lt;/li&gt;

&lt;li&gt;ひょっとすると主観的推論も積み重ねればどこかで量質転化（？）して客観的記述としての資格を何らかの意味で獲得するのかもしれない（英米系の発想としてはまさに強弁にしか見えないが）。つまり、「全体」に到達して「体系化」できれば独自の価値を主張できるのかもしれない。しかし、今のところは「弁証法的体系」を構築したと言はれてゐる人はわづかしかゐないからいいやうなものの、そのやうな人々が同じ分野にたくさん出て来たらどうなるのだらうか。そのやうな「体系」は一意に決まるのか（この質問も英米系な感じ）。一体全体二つの「体系」の間にに優劣などつけられるのだらうか。つける必要がないのであれば（或いは人々がそれぞれの立場に応じて自分に都合のよい「体系」を採用すれば良いといふのでは）そもそもそんな「ものものしい」モノを作る必要はあったのだらうか。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;――といったやうなことでして、私などは師匠の深い考への核心には到底近づけぬと苦しんでをる次第です。三浦つとむ師匠を信頼する他の人たちはかういふ疑問に苦しまないのだらうか、或いはとっくに皆自分で「答へ」を出してしまってゐるのだらうかと呻吟したり焦ってみたりしてゐます&lt;span style=&quot;font-size: 0.8em;&quot;&gt;(´・ω・`)&lt;/span&gt;。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;【約2200字】&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>深草周</dc:creator>
<dc:date>2007-03-20T22:42:03+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/03/3__f2e4.html">
<title>今日の雑感3: リンク改訂など</title>
<link>http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/03/3__f2e4.html</link>
<description>備忘録として書く。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;備忘録として書く。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;このブログの右側にあるリンクを改訂の上、仕分けてみた。仕分けたといっても正確な分類ではなく、私の中では大体こんなグループにリンク先を分けるといった程度のものである。また時間が経てばリンク先の事情はもちろんのこと、私自身の見方も変化して行くであらう。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;廣松の分析を読んでゐると、どうもそれがラングの分析に思へてならなくなって来る。ラングによって私たちの判断が規制される側面があることは或る程度納得できることだ。しかし、ラング自体が歴史的な変化を被る場面では、ラングの外に変化の要因を求めなければ説明ができなくなるのではなからうか。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;市場が効率的であれば、ウマイ話はない。しかし、インサイダ取引まで含めればその限りではない。とすれば、自分自身の内情は自分自身が一番良く知ってゐるわけだから、株式投資などするよりも自己投資した方が得な気がする。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;信仰を前提とした学問を神学と呼ぶとするならば、少なくとも大学に入った当初の自分は神学的態度で凝り固まってゐたやうに思ふ（もちろん「信仰」とは師匠に対するそれだが）。そもそも「あれもいい、これもいい」といって興味が分散し過ぎてウンザリしたから師匠に付くことにしたのに、現在ではまたもとの相対主義的な状態に戻ってしまったわけである（これは気分で判断してゐる可能性がある）。しかし、以前よりも経験や知識を積んでゐる分、ヨリ個別科学への興味関心が増して来たところに違ひがあると感じてゐる。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;p&gt;

【約600字】&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>深草周</dc:creator>
<dc:date>2007-03-14T23:12:24+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/03/2_3525.html">
<title>今日の雑感2</title>
<link>http://wwmd.cocolog-nifty.com/main/2007/03/2_3525.html</link>
<description>今の私が「後の私」のために記録しておく。この記録にはまとまりがなく、前後が単なる連想によってつながれてゐる部分があると今の私は判断する。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;今の私が「後の私」のために記録しておく。この記録にはまとまりがなく、前後が単なる連想によってつながれてゐる部分があると今の私は判断する。&lt;/p&gt;&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;安井邦男『現代論理学』（世界思想社、1991）で行き詰ってゐる。何度か諦め、何度か再挑戦したが、今回も諦めざるを得ないやうだ。p.56のNQにおける全称導入（∀－入）と存在除去（∃－除）との付帯条件がどうしても理解できないのである。焦点をメモしておけば、なぜ「従属する仮定のうちに自由変項として現われてはならない」といふことが或る変項の任意性を保証することになるのかがよく分からない。自由変項として現はれてはなぜ不都合なのか、具体例が思ひつかない。全称導入に対するコメントとして「つまり，xが∀xAが従属するある仮定のうちに自由変項として現われるなら，xはその仮定を満たす限りでのxであるという１つの制限を受けることになるが，そうでなければ，xはまったく任意の個体を表わすわけである」とあるが、自由変項として現われることがどうして「１つの制限」になるのかが分からない。束縛変項だと「制限」にならないのだらうか……？　これらを鵜呑みにして先に進んでもみたが、やはり納得できないと感じて戻って考へてゐるところである。他の教科書も覗いてみたが、使ってゐる記号が異なる上にどうも安井氏とは違ふ視角から説明してゐるやうで、安井氏の記述を解く手がかりにはならなかった（他の教科書の記述は呑み込めるのに安井氏の記述だけが呑み込めないのが不思議である）。仕方が無いので他の教科書で学び直すことを検討し、もし疑念が氷解することがあれば戻って来よう。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;機能主義者・廣松渉の『弁証法の論理』を要約してゐる。第七信の要約が終はり、廣松氏が提案するところの函数充当型の体系構成法の説明が始まったところだ。廣松氏には師匠が批判するところの「機能主義」的な面も確かにあるが、ひょっとすると現象を単にフェノメナルなものではなく、媒介されてゐる側面において捉へる点で師匠と共通してゐるのではないかと感じてゐる。この点は&lt;a href=&quot;http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/50930270.html&quot;&gt;秀さん&lt;/a&gt;と共通してゐるのかもしれない（秀さんが支持する宮台氏は廣松氏を師と仰ぐ人だから）。しかし、師匠が現象主義を批判して提出した体系は現象の諸連関を現象の観察者との連関に置くだけではなく、現象の「奥」にまで言及するものである。《対象→認識→表現》といった過程をそのまま経験的に見渡すことのできる視点など実際には存在しないわけだから、この過程に関する師匠の表現は極めて独断的に見えてしまふのである。廣松氏の「函数」概念でこのやうな超経験的な過程関係まで扱へるかどうかによって、師匠の学説の意味がヨリはっきりして来るのかもしれない。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;

&lt;p&gt;

【約1100字】&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>深草周</dc:creator>
<dc:date>2007-03-14T00:16:12+09:00</dc:date>
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